血と肉。
4.
彼女の実家は外界でも有数の資産家で、参入した数多の事業の先々で多額の利益と成功を収めているのだと知りました。件の事実が当人の口から話題に上った事はありませんが、どれだけ遠くの土地に足を運んでも彼女の名と家柄は知られており、何時だったか小規模な旅館に二人きりで宿泊した時は十分毎に従業員が様子伺いの声を掛けに来る有様で、到底全く休めずに私が熱を出して倒れた事がありました。
それ以来、多少交通の便が悪くても彼女の一族の所持している別荘に宿泊するように取り決められました。幸いな事に彼女の一族は国内国外問わず別荘や別宅を持ち、趣味の野外調査のために自由に使用する許可を彼女は既に得ていたため、遠出する際には現地付近の家を借りることが出来ました。
村を離れて数ヶ月。叡智と美貌に彩られた美神の素顔は徐々に露わになりました。
彼女は或る一つの風習を通して魂と精神に関わる信仰を探り、理論立てて思想と意識の誤りを正そうとするだけでなく、親切心からの断罪を下そうともしていました。
数十冊にも及ぶ研究手記は雑然と事例と現象を記録していますが、何冊かの内には必然的に私の村の習俗についても記述しています。私の口から漏れ出た事実も目前で記入されました。
裏切りは何より重い罪だと罪悪感が苛立ちの炎を纏って私の胸中を焦がします。
私が外界に招かれた理由は村の事実の裏付けの為だけだと虚偽で己を塗り込めることは出来ません。私はそれを覚悟の上で彼女の美貌と才覚に惚れ、自ら村に背いたのですから自責の苦痛は甘受せねばなりません。
村への忠誠心を発揮して研究手記を強奪するなら、今度は彼女への背信になります。
衣も食も住も上質の物を与えられ、肺病も治療を続ければ病状も好転すると伝えられ、入院どころか栄養剤と薬物の投与によって病症を改善されました。
私が彼女に対して後ろ暗い感情を抱えているなど、彼女は夢にも思っていないでしょう。
貝の髪留めを握らせても、私が拒否しようとすれば彼女に阻止する権利も力もありません。私自身の自由意思で選んだのですから後悔は私自身でせねばなりません。
村への罪を重ねても、私は蕩けるような甘さを含んだ感情で彼女に従心していました。
鎮魂船の出帆する時期になり、私は彼女に連れられて生まれて初めて海を目にしました。粛々と不規律な小波を繰り返す大海に、農村を覆い尽くそうと黒々した枝葉を四季を問わず繁らせていた樹海と同じ外界からの侵入者を拒む不吉さを感じ取りました。
彼女も道中で見かけた住民も意識していないでしょう。城壁の内側に暮らしていた私だからこそ感受したのです。村も街も本質的に合一であり、唯一違うのはこの街には発展性と未来がある点です。
私は髪に留めてある白い貝殻を指先で何度も撫でました。
遠い潮騒の音が風に鳴る陰樹を想起させ、私の居場所と時間を惑わし離縁された村を想起させます。灰色の広漠は一時に橙の鮮やかさで染められ、やがて境界が解け合い闇に埋もれます。視界を闇で隠されても海鳴りは続き、靴が濡らされるに至って波が瀬戸際まで迫り来たのだと分からされました。
ぽつりぽつり白木の箱を持った人間が海辺にやって来ます。
彼らが手にした提灯によって浜辺は蛍の水里のような点々とした灯りで照らされます。
今日の出帆に待機していた船に次々白木の箱と蝋燭が積み込まれます。全ての箱を乗せると鎮魂船は静かに動き出します。船が沖に到着するまでは雑談の声もあり儀式の雰囲気とは言い難いものでした。
しかし沖に到着した船から、蝋燭の薄灯りにぼんやり内側から照らされた白木の箱が流され海を染めていくと誰もが静かに鎮魂の祈りを唱えました。
灯りが完全に闇に沈むと一人、また一人とその場を去っていきました。
そして大海は粛々と静寂と常闇を紡ぐ作業を永久に続けます。
肺病持ちが冬の潮風に長時間晒されるなんて愚かの他に言葉はありません。
私の身体は芯から冷え切り、その晩から咳が止まらなくなりました。
三日三晩高熱に浮かされ何度も嘔吐を繰り返し、意識が途切れると痙攣を起こしていたそうです。
迂闊でした。
治療で改善したとはいえ私の肺はまだ病魔に取り憑かれている事を失念するなんて。
鬱蒼たる樹海と城壁の山々を彼女と共に駆け抜けられたから今回も無事だとどうして言えたのでしょう。
鎮魂船の儀式を眺めたら翌日には発つのだからと選んだ別荘。
陽の差し込まない狭い一室、隅には砂埃や綿埃がうっすらと滞積している。布団から手を伸ばすと直ぐに家具や壁の圧迫を受ける。
唯一の窓も家屋を覆う木々に阻まれ、全開にしたところで風を一切通さない。窓枠は建付が悪く、動かす度に大仰な音を立てる。息が詰まる部屋。
長い間使用されていないからと説得した彼女の言葉に、どうして耳を傾けなかったのでしょう。
四日目に私は血を吐きました。