血と肉。
3.
私は十六になりました。
婚約相手を探すには充分な年頃です。
無論肉の悪い私には狭い村の範囲の中でも殊更に限定されています。
血が悪いか肉が悪いか骨か悪いか、誰を選んでも幸福な未来を捉える事は難しいでしょう。家族の手伝いを口実に私は連日森に入り、見合いの期を引き延ばし続けておりました。
他に相応な相手もいないため対面すれば当人の意思に関わらず決断が下されるでしょう。
長月を過ぎ神無月を迎えても樹海は相も変わらず忌まわしい程に深緑を湛えています。
奥まで足を運ばずとも地面はたちまち苔生した緑地へと変わり、慣れぬ者は足を取られ更なる侵入を拒絶されます。私は病持ちでも地元の住人です。明かりの絞られた先へと歩き腰を落ち着ける事に恐怖はありません。山並みを畏怖の対象としていてもそれ以上の怯えはあらず、疎ましい決断に悩まされている今では屋内より余程憩いが取れます。
誰も私を見咎める者はいません。葉擦れの音だけが静かに内耳を擽るのみです。
草木のように芽吹き成長し枯れるだけの生活も満足に行えない自分はやはり欠損した人間なのでしょう。苔で覆われた岩に腰を下ろし、父母へ懺悔します。頬を伝い下顎で組んだ手に涙が零れます。
草木を掻き分ける音が聞こえました。
私は背後を振り返りました。
私はそれまで同性が、光り輝く珠のように美しい物だと知りませんでした。
自分の見窄らしさを恥じたのもその瞬間が初でした。
鬱蒼とした常緑樹の舞台を純白な衣装で登場する人がいるなんて。
衣服は一瞥しただけで光沢から祖母の着物より上質の素材を使用していると解ります。
手を差し伸べられてもその手を掴むどころか組んだ指を解けませんでした。
森には猛獣や妖怪の類が潜んでいると子供は家族から寝物語に教え込まれます。
近付き過ぎると魔に囚われて現世に還れなくなります。
現実に悩み樹海を彷徨するから異邦人に魅入られるのでしょうか。
髪も肌も容貌も端麗で美神の如き容姿に蠱惑的な双眸。
食虫花の香に誘引される虫の様に甘美な罠に堕ちてしまいました。
手を頬に添えられ涙を拭われたら後戻りは出来ません。
掌の体温が熱傷のように頬に刻まれ、焦燥にも似た感情が全身を包み込みました。
知識人の実地調査とも単なる金持ちの道楽とも付かない異邦人の訪れが歓迎されるはずもありません。しかし外界の食物や珍奇な装飾を贈与されると正面切って異邦人を非難する者は失せ、後に残るのは遠巻きな警戒と保身ゆえの無関心でした。
内部から出た者は稀とはいえ存在するものの、外部から侵入する者は村の老翁さえ覚えがなく、宿の代わりに一番に接近された私の家に異邦人は滞在することとなりました。
幸か不幸か我が家に布団は二組も余分に収納されているため黴臭さを受諾して貰えれば突然の来客にも応対できます。
不躾な来訪を許諾した礼に銀に輝く砂の粒を手渡され歓喜する祖母の姿を見て、狭い世界を構成していた習俗や規律が、雪解けで屋根から滑り落ちる氷粒のように崩落していく未来が感知できました。水加減を失敗し普段の粥と大差ない米粒なのに、口に運ぶ祖父母の表情には遠く過ぎた青春時代への懐古が伺えます。
美貌の化身は外界の刺激を持ち込み大海に誘惑させ、必然に城壁と信仰を崩壊させ、白日の下に暗黙の儀式を曝すことでしょう。
私は異邦人の望むままに村落を無機質な紹介人となって案内する役目を承りました。
余所者に風習を嗅ぎ回られぬ為の監視役を課せられ義務に忠実な奴隷の様に白けた表情を作り、同時に崩壊への密やかな共犯者たる疚しさと背徳行為を腹腔に隠します。
娯楽や愉楽と一切無縁の村ではあるものの、墓地への道案内を求められると多少の蟠りは生まれます。村の存在が学術上の価値だけの研究対象の模型の様で、つい一言不平を漏らしてしまいます。
墓地は村の片隅に共同用として場所が設けられています。
骨は檻です。藻掻き出でようとする生命の象徴である血潮と肉筋を地に縛り付け、魂を澱とした永遠の鬱塞内に補足しようとしています。
骨を後生大事に地の祭壇に祀るのは、幼子がその稚気故に蝉の抜け殻を収集するのと似ています。空蝉に夢中で肝心の肉体を見失うのは己の地軸の誤認と同然です。
外界から来た聡明な異邦人に秘事は通用しません。
私は弁舌巧みな誘導に明確な言葉だけでなく、時には否定で時には沈黙で問い掛けに示唆を供与してしまいます。異邦人は確実に神秘を手の内で剥ぎ取っていきました。
異邦人の住む街では骨を白木の箱に納め鎮魂船に乗せて沖へ流すと語られました。
小雪の舞う時期に骨を集め船の舳先に蝋燭を立て灯りが闇に沈むまで見送るのだと。
大海は果てなく続き、常緑樹の樹海よりも無限の虚空が支配している。
虚無の果ての果てに祈祷の言葉で満たされた地があり、骨は力を得て大気に大地に大海を構成する一欠片に融和する。大気と大地と大海は年月を掛け再び生命を受胎し有限の世界の内に出産する。
私は異教徒の思想に賛同も共感も覚えませんでしたが、闇の中に幾つもの薄明かりが点り順次に溶け込まれる幻想的な風景への逢着を望みました。
また異邦人は懐から一枚の絵画の模写を取り出しました。
黄金色の薄衣で頭と髪を覆い、白磁の胸と太腿を露わにした歓喜の表情を全身で表現し、妖しく誘惑する月光の瞳と熟した林檎の唇で熱情の元に今まさに愛人へ接吻しようとするかのような若い娘。その退廃的な美に目を奪われない者は皆無でしょう。
接吻の相手は鮮血生々しく滴らせ娘の手を濡らし、しかし生命ある物と変わらぬ薔薇色に頬は染まり瞳には高潔と使命と神聖な輝きが兼備され、遠く地の果てまで聖言を唱えているような生首なのです。
私はそれが何を意図しているか瞬時に悟り、異邦人から顔を背けました。
悪意ではなく純粋な知的好奇心からの所行なのでしょうが、私を動揺させ畏れさせるには充分な振る舞いでした。何処で漏れ聞いたのか辿り着いたのか一切不明ですが、村の信仰と風習を暴いた事実に脅威を感じました。
最初から異邦人の手の中で踊らされていたのです。
私は全て見透かされていた事を理解し、逃亡者のようにその場を後にしました。
懸命に神秘を外界から隠し通す姿と、葛藤と背徳感の下に手懸かりを提示していた姿の矛盾で滑稽な様を思い浮かべ羞恥したからです。
蜘蛛の糸に蝶や虫が搦め捕られるように精神が巧みな罠に翻弄され攪乱され弄ばれる事に、朴直な住人の集う世界では決して体験できない極上の快楽を感じた自分に怖れを抱いたからです。
異邦人に触れていると身体の一番深い所から湧き出る未知の感覚と欲望に幻惑されます。
精神も肉体も生活も捨てて外界の捕虜にされたいと願う自分を理性の最奥に封じるために、最低限の接触で美しい異形が去る前夜までの数日間を暮らしました。
夜半に私は寝床を抜け出し、最後になる美しい異邦人の寝姿を永遠に記憶に留めるべく、寝息が掛かるほど近くに顔を寄せ安らかな面を眺めます。
部屋を満たすのは重なる呼吸音と自らの鼓動のみ。
見詰めている状態のままで何時間も経ってしまいそうでした。
遮ったのは柔らかな笑い声。異邦人の覚醒に気づき、私は飛び退きました。
下劣な私への嘲笑以外に合致する理由がありません。