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わたなべめぐみ
わたなべめぐみ
novelistID. 54639
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切れない鋏 6.小雪の章 古小箱

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 友人の死の向こうに、彼は何を見たのだろう。血のつながらない子供を二人も育て、奇跡のように娘を授かった。慌ただしくも幸せな日常の延長線上に待っていた、容赦ない現実と、それを乗り越えて支えてくれる子供たち――

 小雪が拍手を送ると、晴樹は愛嬌のある笑みを浮かべた。

「さあ、お待ちかねの試奏タイムだ」

 島田はそう言って小雪のベースをスタンドに乗せた。何のことかと思っていたら、彼は店の奥から別のベースを運んできた。作られてからあまり年月が経っていないのか、明るい茶色のボディはつるりと光を反射している。

「アンドレア・イーストマンの中古品だよ。年数は浅いが、弾き癖がついていてね。初心者にはおすすめできないが、君ならうまく使いこなせるだろうと思ったんだ。まだ修繕が終わっていないが、弾いてみるかい?」

 そう言ってボディの正面を小雪にむけてきた。高鳴る胸を押さえながら、ネックを握らせてもらう。開放弦を順に鳴らし、指をスライドさせる。弦高はすでに低めにセッティングされている。明るい音色がいい、というのが第一印象だった。

 Fブルースのウォーキングベースを弾くと、晴樹が調子を合わせてギターを鳴らし始めた。控えめな彼の演奏に胸をくすぐられて、少し変化を入れる。すると四分音符を刻むだけだったギターが、バッキングらしいものを奏で始める。
 コーラスの最後で晴樹の身体が裏拍のリズムを取り、小節の頭にむけて「イフ・ユー……」と歌い始めた。

 ジャズのスタンダードの中でも特に有名な『ルート66』だ。浮き立つ気持ちをこらえながらウォーキングベースを続けると、晴樹は会話をするような調子で歌を流す。

 どこから持ってきたのか、島田がタンバリンを叩き始める。くだけた表情で体を揺らし、歌詞も口ずさんでいるようだ。晴樹は歌いながらカウンターメロディも自分で弾き、小雪に「もっと他にはないの?」と言わんばかりの顔で目配せをしてくる。

 背中から頭のうしろの方に向かって快感が駆け上っていく。軽いめまいをおぼえる。

 武が愛したジャズの原点は、こんなところにあったのだ――

 普段ならすることのない変化をあちこちに織り交ぜて、小雪はベースを弾いた。
 正解も間違いもない。プレイヤー同士の純粋な心の交感があり、小雪はただその流れに身を任せるだけだった。

 何コーラス繰り返したのかわからなくなった頃、晴樹の合図が出て小雪は終わりのフレーズを弾いた。島田がタンバリンを鳴らし、指笛を吹く。
 ギターを下げた晴樹が微笑む。頬が紅潮している。指先が熱い。

 ようやく前に進める――そう確信しながら、小雪はベースのボディをなでた。

                  ***

 新入生歓迎の時期を迎え、大学構内は色とりどりの看板で埋めつくされている。威勢のいい運動部員たちとは違って、ジャズ研究会の部員たちはのんびりした様子で談笑している。生演奏を披露すれば音楽好きな人間がたちまち集まることを知っているので、熾烈な新入生取り合い合戦に参加する必要もない。

 この日は愛美のビッグバンドの練習があるので、小雪も顔を出していた。浮き足立つ後輩たちと会話をしながら、桜の大木を見上げる。構内の真ん中を突き抜ける急な坂道にそって、何本もの桜の木が植えられている。今年はなかなか気温が上がらないこともあって、開いている花は数えるほどしかない。梢は重たそうにつぼみを膨らませて、暖かな春風の到来を待ちわびている。

 大学生のゆるい雰囲気の中、ひとりせかせかと立ち回っているのは愛美だった。胸にコンサートマスター用の分厚い譜面ファイルを抱え、今ひとつエンジンのかからないバンドメンバーをかき集めている。

「練習、今日で最後なんだからね! わかってんの?」

 数人が愛美に押されながら、地下につづくスロープを下っていく。話を中断されて困ったような顔をしていたが、「あんだけできてりゃ大丈夫じゃね?」「でも武さん来るんだったらさー」「あとでパー錬しようよ」と口ぐちに話しながら、地下に潜っていく。

 ひとつのバンドを長くやっていると、本番前につめて練習するのを嫌がるもの、余裕を保っていたいもの、直前までレベルを高めたいものと、いろんな考えのプレイヤーがいることに気づく。

 愛美は寝る間を惜しんで弾きたいタイプで、小雪はいつでも同じ状態を保っていたいタイプだ。そのことは武に教えられた。体に大きな負担のかかる1stトランぺッターだからこそ、肉体的にも精神的にもベストコンディションを保つことに武は心血を注いでいた。

 小柄な小雪は、ベースを構えているだけで疲労を感じることもある。息長く続けたいなら無理はするなと、武が暗に諭してくれていたことに、今になって気づく。

 独楽ねずみのようにちょこちょこと動き回る愛美を見て笑っていると、軽いめまいをおぼえた。このところ貧血のような立ちくらみがよくおきる。

 季節の変わり目はいつも体調を崩すし、きっと寒暖差のせいだろうと考えていると、視界がぼやけた。誰かが話しかけてきたが、鼓膜が塞がったようになって聞き取れない。

 大声で名前を呼んだのは愛美だった。腕を強くつかみ、顔をよせてくる。
 何か話しているが、理解の速度が追いつかない。適当に返事をしているとそばにあったベンチに座らされた。

 ようやく焦点が合った。唾液を飲みこんで耳の通りをよくするが、奥の方で鳴っている甲高い音が消えない。

「練習やめとく?」

 愛美の声が聞こえた。ぼんやりとする頭を抱えて、彼女を見る。心配そうに眉を下げている。それからやっと、めまいをおこしたのかと思い当たった。

「あー……うん。大丈夫。今から全体練習だよね」

 おかしな受け答えをしていないか、一言ずつ頭の中で確認しながら言葉を紡ぐ。今から本番前のリハーサルをする、だから愛美はきりきりしながらメンバーを集めていた、私は淡々とベースを弾けばいい――

「ベースって立ちっぱなしでしょ。そんな状態で二時間も弾けるの?」

 どうやら愛美は本気で体の心配をしているらしい。そんなに酷い立ちくらみ方だったのだろうか。「うん、大丈夫」と言いながら立ち上がる。脳の奥から引かれていく黒いカーテンをふり払って、何事もないように歩き出す。

 暖かい風が吹いて、そばにあるカフェの香りを運んできた。

 その途端、強烈な吐き気が襲ってきた。肩を支えていた愛美に断る間もなく、十号棟の一階にあるトイレに向かって走った。

 昼に食べたものを吐いてしまうと、今度は芳香剤が鼻についた。いつもなら無視できる程度のにおいが神経をかき乱して、もっと吐けと信号を送ってくる。

 胃液まで吐いて外に出ると、愛美が待っていた。もうとっくに練習時間が来ているはずだ。それなのに彼女は譜面ファイルを抱えたまま、茫然と立ちつくしている。

「ごめんね、急ごうか」

 そう言って愛美を促すと、彼女は急ブレーキを踏むように立ち止まった。

「ねえ小雪……間違ってたらごめんなんだけど……つわりとかじゃあ、ないよね」
「何それ。そんなのないよ」

 愛美の口から突然出た言葉に戸惑いながら、そう取りつくろう。