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わたなべめぐみ
わたなべめぐみ
novelistID. 54639
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切れない鋏 6.小雪の章 古小箱

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「でも絶対ない、とは言い切れないよね」

 強い口調に驚いていると、愛美はさらにつめよってきた。

「あのね、責めてるんじゃないの。だって妊娠してるなら、タケ兄の子供でしょ? そしたら結婚も破談になって、私たち姉妹になれるじゃない」

 真面目に言っているらしく、瞳が輝いている。こんな状況でもポジティブに受け止められるのがすごい、とぼんやり考えていると、また吐き気がこみ上げてきた。

「マナ、喜んでるところ悪いんだけど、タケ兄の子供ってことはあり得ない」
「えーなんで?」
「だってまだひと月も経ってない。万が一妊娠してても、そんなすぐにつわりなんてこないでしょ?」
「えーでも例外ってこともー」

 愛美は文句を言っているが、小雪は吐き気をこらえながら冷静に考えようと思った。

 過去の記憶をたどりながら、そういえば生理がきていない、と気づく。いったいいつからだろう、三月も、二月もなかった……一月はどうだったか。確か月末に一度来て、しばらくしてから信洋と寝た。それが最後だったので、よく覚えている。

 全身から血の気が引いていく。――信洋の子供がおなかの中に、いる?

 心臓が激しく脈打ち始める。体がひとつの「心臓」という臓器になったのではないかと思うほど、耳の奥でうるさく鳴り響いて、正常な思考を保てない。

 愛美がのぞきこんでくる。思考を見破られないように、視線をそらす。その間も全身の血管が破裂しそうなほど、脈拍は上昇する。

 ――愛美が言うように、もし武の子供なら生むだろうか?

 そちらに思考が飛ぶと、脈はスピードをゆるめ始めた。武の子供を授かっているなら、周囲の反対をふりきって生むだろう。武の結婚が定められた道なら、認知してもらうだけでもいい。きっとこの親友が飛び上がるように喜んで、祝福してくれる。それを糧にこの先も生きていける――

 眩惑的な未来に思いをはせてから、信洋の子どもだったら、という疑念がまた押しよせてきた。信洋と寄り添う未来はもう終わった、子供は産めない――

 そう考えた途端、激しい自己嫌悪が襲ってきた。存在するのかどうかもわからない命を天秤にかけて、選別しようとする自分がいる。

 悪寒のようなものが背筋をかけぬけて、両腕で自分を抱え込んだ。
 吐き気をもよおしたと思ったのか、愛美が背中をさすった。

「ごめんね小雪。浮かれて適当なこと言っちゃって。とりあえず病院行こうよ。ただの風邪かもしれないしさ」

 愛美の声がワントーン低くなっている。男性との経験がないとはいえ、妊娠から出産に至るプロセスは女子高時代に嫌というほど聞かされている。陰りをさした愛美の顔を見ながら、父親が信洋である可能性に気づいたのかもしれないと思った。
 そこへバンドメンバーがやってきた。時間になっても姿を見せない愛美と小雪を探しに来たのだろう。

「行こう、マナ」
「行くってどこに……」
「練習に決まってるじゃない。大丈夫だから、ね?」

 力の限りをつくして笑顔を作った。そうしなければ、ようやく取り戻した平和な日常から転げ落ちてしまいそうだった。戸惑う愛美の背中を押して、地下の練習場に向かう。

 無心でベースを弾く。そうすればきっと、薄汚れた思考は押し流されていくだろう。

 地下に続く階段の照明が明滅している。わずらわしいその点滅が、自分の姿をみじめにさらし出している気がした。



 その夜、武の部屋にむかった。携帯電話で連絡しようとしたが返信はなく、いてもたってもいられなくなって、帰路とは逆方向の電車にひとり飛び乗った。
 事実を知りたかったわけではない。説得しようと思ったわけでもない。
 ただあの大きな手で髪をなでて「大丈夫だ」と言ってほしかった。

 窓の明かりは消えて、人がいる気配はなかった。何度インターフォンを鳴らしても応答はなく、扉は固く閉ざされたままだった。

 仕事で遅くなるのだろう、帰るまで待っていよう、とその場に腰を下ろそうとすると、隣の住人が顔を見せた。これからデートにでも行くのか、その男性は携帯電話を操作しながら鼻歌を歌っていた。ちらりと小雪を見たあと、鍵をかけながら彼は言った。

「そこの人なら、引っ越したみたいだけど」
「そう……ですか」

 反射的にそう返事したものの、理解が追いつかない。
 男性が軽い足取りで階段を下りていくのを見ながら、小雪は立ち上がった。

 また立ちくらみが襲ってくる。意識を手放してしまわないように、一度目をぎゅっとつむってから呼吸を整える。冷たい扉がふれられることを拒否している。

 この扉の向こうに広がっているのは果てしない闇だ。彼と過ごした幸せな記憶は全て消え去って、思い出にひたることもできない。

 とめどなく涙があふれて、首にまいたストールを濡らす。

 他の部屋から鍵の開閉音が聞こえる。小雪はあわてて階段を下りる。

 夜空は雲に覆われて、月も星も隠している。小雪のすぐそばを無遠慮に走り去っていくトラックのヘッドライトが、神経を逆なでる。

 悲しいはずなのに、怒りの感情が体の奥から噴き出してきて、小雪は走った。

 止まらない涙を何度もぬぐいながら、駅に着くまでは泣こう、と思った。
 駅についたら泣いてぐちゃぐちゃになった顔はストールでかくして、素知らぬふりで電車に乗ればいい。

 流れ続ける涙は酸素を奪って、膨れて引きちぎれそうな神経を麻痺させてくれた。