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わたなべめぐみ
わたなべめぐみ
novelistID. 54639
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切れない鋏 6.小雪の章 古小箱

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 箱の中には錆びた鋏がおさめられている。じっと見つめていると、なぜか思考が薄暗い方へ導かれていく。この鋏で武が怪我をすれば、会社を休むことになって、またそばにいられるかもしれない――

 自分の思考回路に驚いて、小雪は頭を振った。再び入院するなんて事態は全く望んでいない。そんなこと願うはずがない――と思う一方で、本当にそうだろうか、と考える。

 後ろ暗いことなど一度も考えたことがないと言えるだろうか。

 たとえばこのチューナーの持ち主である慎一郎のように、婚約者が不慮の事故で亡くなれば、未来は変わるだろうか――

 あまりに身勝手な想像に嫌気がさして、感情にふたをした。ぜんまいを取りだして静かに引き出しをおさめる。

 ぜんまいを手にしたものの、壁にかけられた巻時計には手が届かない。
 物音を立てないように、キッチンからスツールを運んでくる。上に立つには頼りないが、他に踏み台の代わりになるものがない。

「……なにしてんの?」

 スツールの座面に膝を乗せようとしていた小雪の肩が跳ね上がった。あわててふりかえると、いたずらっ子を見つけたときのような面持ちで武が視線を送ってきた。
 ベッドに寝そべったまま、肘をついた腕に頭を乗せている。乱れた髪が顔にかかって、なんてセクシーなんだろう、と脳は関係のないことを考え出す。

「時計、巻こうとしてるのか?」

 そう言われて、小雪は我に返った。手の中からぜんまいが転がり落ちる。拾おうと身をかがめた途端、バランスを崩してスツールごとひっくり返った。

 ふがいなさに赤面しながら痛がっていると、武が喉を鳴らして笑った。

「大丈夫か。おまえじゃ背が届かないだろ」

 手早く服を身に着けると、小雪の横に立った。なんなく時計に手を伸ばし、ぜんまいをさしこむ。けれどやはりうまく巻けないようだ。

「さすがにもう……寿命かな」

 ほこりをかぶったガラス面を労わるようになでて、また壁にかけなおした。
 止まった時計を見上げながら、小雪の髪をくしゃりとなでる。抱かれているときよりも、落ち着いた気持ちで愛情を受けとめられる。

 ぜんまいを引き出しにしまおうとした武は、古びた小箱を取りだして言った。

「これ、おまえにやるよ」

 さし出された小雪は「でも」と言ったが、武は黙って手のひらの上に小箱を乗せた。
 予想したよりもずっと重みのある箱が、小雪にのしかかる。

「いらなけりゃ、捨ててくれていいから」

 そう言ってぜんまいも上に乗せた。両手で受け取って、小雪は顔を上げた。

 武の表情に迷いも暗さもなかった。押しつけようとしているのではなく、わが身の一部を託そうとしているのなら、素直に受け取りたいと思った。
 箱を持ったままの小雪を抱きよせて、武は息を吐く。

「……次会えるのは、ライブの本番かな」

 弱々しく頼りなげな声だった。こんなか細い発声をするとき、武は決して顔を見せてくれない。必死に顔を上げようとしても、抱きすくめられてしまう。

 胸に抱えた小箱はすっと冷えて、すぐそこにある現実を見据えているようだった。

                 ***

 翌週、島田から連絡を受けた小雪はベースを抱えて弦楽器工房に向かっていた。
 日増しに気温が上がり、もう手袋も必要ないくらいだ。駅から徒歩十五分の道のりを、ひとりベースを抱えてえっちらおっちらと歩く。空は薄青く、綿のような雲がうっすらと広がっている。陽ざしはやわらかく、頬をなでる風が優しい。

 雑居ビルの一階に面した引き戸を開けると、島田が目を丸くして迎え入れてくれた。

「おや、ひとりかい? もしかして駅から歩いてきたのかな?」

 小雪のうしろに人影がないことを確認すると、島田はベースを受け取ってくれた。

「駅からタクシーに乗ろうと思ったんですけど、乗車拒否されちゃって」
「それは大変だったね。親切なドライバーもいるが、世知辛いものだ」

 島田は微笑みながら、ソフトケースごとスタンドに立てかけた。
 小雪は息をついて、上着を脱いだ。心地よく体が上気している。

 いつもなら手助けしてくれる人間がいるが、この日はひとりで来ると決めていた。頼ることが当たり前になっていた自分を、少しでも変えていきたかった。

 店の奥で男性が背中を丸めてギターを弾いている。ゆっくりとふり返ったので頭を下げようとしたら、顎ひげを生やしたその男性は武と愛美の父親、有川晴樹だった。
 深緑の中折れ帽子をひょいと外して、口元に笑みをたたえる。

「セッションの時以来だね、小雪ちゃん」
「お久しぶりです。お元気にしていましたか」

 驚きながらも定型からはずれない挨拶に、相好を崩してくれる。何故このタイミングでこの場にいるのか、聞こうとした瞬間、満面の笑みを浮かべる島田の横顔が目に入った。

「もしかして島田さんが……」
「そうなんだ。君が来ると聞いてね。見せたいものがあるんだよ」

 そう言ってギブソンのギターをスタンドに立てる。黒いジャケットのポケットを探ろうとしたが、なぜかその動きをやめて立ち上がった。

「その前に、お礼をしないとな。君がこのベースを丁寧に扱ってくれたことは、島田さんから聞いているよ。武に説得されて君に譲り渡して本当によかったと思っているし、同時に後悔もしているんだ。亡くなった息子のベースなんて重いものを押しつけてしまって、申し訳なかったね」

 彼は眉間に皺をよせて微笑みながら言った。小雪は手をふりながら、「そんなことありません」と有り体の事しか言えず、もっと伝えたい気持ちはたくさんあるのに、彼の小さくなった肩を見ていると言葉にならなかった。

「愛美から押しつけるなんて駄目だと言われ続けて、妻も随分悩んでいたんだ。けれど追悼セッションの演奏を聞いたとき、君にこのベースを託して本当によかったと思えたよ」

 島田がソフトケースのファスナーを引くと、こげ茶色のウッドベースが姿を現した。晴樹は愛おしそうにボディをなでながら、弦をはじいた。

「今日は最後のリペアに来ると聞いたから、その前に話しておかなければと思ってね」

 そう言いながら島田に目配せをする。事前に話は通じているのか、島田は黙ってベースを持ち上げた。自分の作業スペースに運んで調節を始める。
 小雪は勧められるままに、そばにあった椅子に腰を下ろした。

「この写真を見てくれるかな」

 晴樹は一枚の古いスナップ写真を取りだした。そこには若い頃の晴樹と、驚いたことに小雪の父親が映っていた。どこか登山に出かけたのだろうか。二人とも大きなバックパックを背負い、手にはストックを握っている。

「これ……私の父です。お知り合いだったんですか」

 動揺をかくせずにうわずった声でそう言うと、晴樹は首を横にふった。

「いいや、彼は君のお父さんではないよ。私の大学時代の友人、荻野和幸だ」

 言い聞かせるようにゆっくりと晴樹は言った。言われたことを理解するために、頭の中で何度も言葉を反芻した。君のお父さんではない、大学時代の友人、荻野和幸――