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わたなべめぐみ
わたなべめぐみ
novelistID. 54639
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切れない鋏 6.小雪の章 古小箱

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 眉を下げてそう言うと、武は胸に抱きとめた。心臓が力強く脈を打っている。目を閉じて心音に耳を澄ませる。今夜限りの、武の生きる音色を記憶に刻みつける。

「おまえはずっと……おまえのままでいい」
「どういう意味?」
「生きる道なんてわずらわしいもの、必要ない。望むままに生きられればそれで……」

 最後まで言い切らずに、武は腕に力をこめた。骨がきしむくらいの痛さで抱いてほしいのに、そうはしない。大きな手がくせ毛をなでる。長い間コンプレックスだった薄茶色の巻き髪も、彼が愛おしげになでてくれるなら、悪くないと思える。

 望むままに生きること――それは武が求めたものなのだろうか。

 何のしがらみもなく自由に生きられる、その自由さを今の自分はもてあましている。

 いくつか選択肢があればその中から選ぶこともできるのに、一番の望みはとうの昔に消滅して、途方に暮れている。
 ひとつの決断が未来を切り開いてくれるならと思い、小雪は口を開いた。

「来月のライブが終わったら、シンのベース、タケ兄に返すね」
「……それからおまえはどうするんだ」
「じつは中古のベースを島田さんにお願いしてるの。シンのベースを丁寧にリペアし続けたごほうびに、いいものが入ったら格安で譲ってくれるんだって」

 できる限りの明るい声で言った。そうでなくても巻き時計の音がしない室内はしんと静まり返っていて、武の脈打つ音ばかり聞こえる。

「あれの最初の持ち主は……シンの実の父親なんだ」

 小雪を抱えたままスツールに腰かけた武が言った。初めて聞く話に小雪は目を丸くする。

「そうなの?」
「シンの父親はオーケストラのベース奏者をやってたんだ。親父とは同じ学部で知り合った友人同士だった。シンの両親が遭難事故で急死したあと、遺品の中に愛用してたベースがないことに気づいて、親父が方々を訪ね回ったんだ。孤児になった赤ん坊のシンを引き取って、何年もした頃に偶然見つけて、島田さんのところへ持って行ったらしいよ」

 武が遠い目をしている。その瞳の先に慎一郎がベースを弾く姿が映っている。

「勧めたわけでもないのにシンがベースに興味を持ち始めて、親父や俺と同じジャズの世界に飛び込んできた。ジャンルは違うけど、そのことに血のつながりを感じずにはいられないって、親父は言ってたな」
「けどきっと、シンが始めたのがジャズで、晴樹おじさんは嬉しかっただろうね」

 素直にそう言うと、武の口元に笑みが浮かんだ。

「はっきりと聞いたことはないけど、たぶんそうだろうな。親父もおふくろもシンを愛していたから」

 兄の顔をした武がうつむいてそう言う。小雪が「タケ兄もね」と付け加えると、くすぐったそうに笑って膝の上に乗ったままの小雪を抱きしめた。

「おまえに言われると、素直に信じたくなる」

 瞳がゆるい弧を描いたかと思うと、小雪は抱き上げられた。小さな悲鳴を上げてしがみつくと、また武が笑う。抱えた手で小雪の身体をくすぐったりからかったりしてくる。
 屈託のない笑い声が、寝室を満たしていく。

「タケ兄って呼び方はなし」

 そう言いながら小雪をベッドに下ろす。押し迫ってくる夜の予感に、小雪の心臓は鼓動を速めていく。

「だって他に呼びようがないもの……」
「二人のときは名前で呼んで」

 すがるような瞳で武はそう言った。たまらず小さな声で「……武?」とつぶやくと、「そう」と答えて覆いかぶさってきた。首筋をついばまれて思わず身をすくめる。武の黒髪が鎖骨のあたりをなでる。何度服を脱がされても、戸惑ってしまう。素直に従えばいいのか、少しくらい恥らった方がいいのか。袖から抜けた腕が宙を彷徨って、武の太い首筋にすがりついていいのか、考えてしまう。

 ためらっている間も、武はあちこちに印をつけていく。もっと彼のために何かがしたいと思っても、快感に押し流されて身動きが取れなくなる。

 せめて望まれたとおりにと思い、彼の名を呼ぶが、不意に婚約者の存在が迫ってきて、熱に浮かされている心を端の方から侵食していく。

 小雪がこの部屋にいるとき、武は常に携帯電話の電源を切っている。気まぐれに応対していた以前とは違い、その姿勢は徹底していた。インターフォンが鳴っても、出ることすらしない。二人だけの閉ざされた空間を死守するように、外部の雑音を取り払う。

 室内に女性の片鱗を感じさせるものは一切ない。そのことがかえって婚約者の存在を浮き立たせる。小雪が何度となく電話をかけてもでなかったあの時、そばにいた人は誰だったのだろう。意図的に電源を切っていたのは、誰のためだったのだろう。

 待ち焦がれた腕の中にいるのに、嫉妬は勝手に渦を巻いて身も心もがんじがらめにしていく。肌にふれる彼の吐息すら、自分の妄想の産物ではないかと疑ってしまう。
 小さな胸はどす黒いものでいっぱいになって、意図しないのに、涙が頬を伝っていく。

「……小雪?」

 武が顔を上げた。二重まぶたの瞳が、切なげにこちらを向いている。醜い妄執を見透かされたくなくて、小雪は顔をそらす。頬の下にある枕が濡れていく。

「俺のこと、ちゃんと見て」

 小雪の顔を覆っていた長い髪をかきわけて、武は言った。覚悟を決めたような澄んだ瞳がまっすぐにこちらを見ていた。くちびるを噛んで涙をこらえようとすると、大きな手が顎に添えられた。否応なく彼の熱い舌が侵入してくる。

「俺はもう逃げない。おまえが欲しいもの、全部あたえてやりたい」

 目の前に武がいる。自分だけを見ている。なのにどうしてこんなにも胸は痛いのだろう。
 望んでいた腕に抱かれて、この上なく幸せなはずなのに、武の言葉は胸を貫いていく。

 自分が欲しいものを手に入れられる未来なんて、どこにもない――

 両手はシーツに縫いとめられ、涙を拭くこともできない。熱を持った頬に武の冷たい手のひらが当たる。その指は徐々に下りて、小雪の敏感なところを探し始める。
 心が砕けるまで抱かれて、泡のように消え去ってしまえばいいのにと思うけれど、現実は冷静に小雪のそばに佇んでいる。幸福と妬みと快楽と憎しみは、ないまぜになったまま消えてゆかない。

 身体が離れてようやく息ができると思ったら、すぐさま武が侵入してきた。享楽に身を委ねられれば救われるのに、それができない。甘い痛みが脳を支配していく。武が何度も名前を呼んでいる。次第に何も考えられなくなって、小雪は理性を手放した。



 肌寒さを感じて体を起こすと、寝室は闇に沈んでいた。扉のむこうにあるリビングから光が漏れ出している。寝息を立てる武の腕が、小雪の身体にからんだままになっている。

 起こさないようにそっとはずし、脱ぎ散らかした衣服を集める。
 部屋には停止した巻き時計しかない。小雪はこっそりと自分の携帯電話を確認した。午後十一時を過ぎたところだ。
 冷えた暗い室内にひとり立っていると無性に巻き時計の秒針の音が恋しくなって、引き出しの一番上を開けた。

 そこにはいつもと変わらずぜんまいと、慎一郎のチューナーと、古びた箱があった。