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わたなべめぐみ
わたなべめぐみ
novelistID. 54639
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切れない鋏 6.小雪の章 古小箱

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 連鎖反応を起こすように愛美も泣き始めた。「そんなのいやだ」と繰り返しながら、二人で泣きつづけた。慰めるものも咎めるものもいなくて、感情を吐露しつづけた。泣きすぎてぼんやりした頭のままで、愛美が語った優しい夢の中にひたっていたかった。

 けれど次第に涙は枯れつきて、現実の世界へ戻らなければならなくなる。その前に、慎一郎を失った悲しみも、信洋を傷つけてしまった後悔の念も、武への果てない恋慕も、すべて春の風の中に洗い流してしまいたかった。



 全体練習のあと、第五練習室の前にある廊下にベースを寝かせていると、すぐ横を信洋が通った。いつもと変わらない遠慮がちな足取りが小雪の心を和ませる。

「小雪は就活、進んでる?」
「ううん、全然」

 そう言って顔を上げると、信洋が微笑んでいた。スポーツ医学を専攻する信洋が、柔道整復師の資格を取るため卒業後は専門学校に通うらしい、という噂を他の四回生から聞いた。きっとそれは噂ではなく、本当のことだろうと小雪は感じていた。

 自分には明確な将来の目標がない。愛美と同じく、発達心理学を専攻しているものの、臨床心理士の資格を取ってカウンセリングの仕事につこうという気骨もない。
 愛美は会社説明会へのエントリーすらしていない。彼女は本気でジャズピアニストとしてプロの道を歩もうとしているのだろう。

 小雪自身は、社会人になってもベースを続けたい、そして武が気まぐれに吹きに来てくれればいい、と漠然とした希望しか持っていなかった。
 その武がいなくなる。この現実をいまだにもてあましている。

 午後八時、全ての練習室の施錠を確認して信洋と共に音楽練習棟を出た。スロープを登ってすぐのところにある守衛室に鍵を返して、一日の練習が終了する。
 先に歩き始めた後輩たちのにぎやかな群れに黙ってついていく。愛美は他のバンドのライブのため早退し、信洋と二人だ。沈黙が重くのしかかるけれど、何の話題をふればいいのかわからない。

「俺……さ」

 暗闇の中で、信洋の声が聞こえた。静かな住宅街に吹く夜風はまだ冷たく、小雪は思わずマフラーに顔をうずめる。信洋は何度も視線を送ってくるが、なかなか言葉が出ない。

「俺……小雪と武さんのこと、まだ許せない。けど……許せないけど……小雪のベースはたまらなく好きなんだって、さっき気づいちゃってさ。どうしたらいいんだろう?」

 途中まで息が詰まりそうなほど胸が苦しかったのに、なぜか最後は疑問形になったので、小雪は吹き出してしまった。

「何それ。私に聞いたってわかんないよ」
「そりゃそうだな。何言ってんだろ、俺」

 二人は目をあわせて笑った。ゆったりとした信洋の笑い声が響いて、後輩たちがふりむく。破局していることを知っている人間は、数少ないだろう。

 信洋は夜空を仰いだ。空と下界の境目を、山の稜線が黒く縁どっている。その上に星の光がかすかに見える。信洋は大きく息を吸って、胸を膨らませた。

「俺、ドラムはずっと続けたいんだ。プロになるほどの器はないし、仕事に専念しろって堅物の親に反対されるかもしれないけど、社会人プレイヤーとして息長くやっていけたらと思ってる。小雪は……どうするんだ?」

 暗にあのオリエンテのベースの扱いをどうするのか、と言っていることはわかった。
 仲介した武はこの地を離れる。愛美は無理に弾かなくていいと言っている。けれど未練はまだある。
 今夜の空に月は浮かんでいない。『ハウ・ハイ・ザ・ムーン』の歌詞にあるように、慎一郎が望むならずっと弾いていたい。けれどその存在は近くて遠い。決して触れることはできない。小雪は空を仰ぎ見る。

「ジャズは続けたいと思う。でもあのベースのことは……今考え中なの」
「そうか」

 信洋はそう言ったきり、追及はしてこなかった。

 じつは数日前、ひとりで島田弦楽器工房を訪れていた。そのことを今夜、武に話すつもりだった。彼の返事がどうであっても、もう揺らがない。

 信洋の大きな体が隣を歩いている。この熊のような体によりかかることはもうないだろう。脳は彼の温もりをまだはっきりと覚えている。今までどれだけ信洋を頼って歩いていたのか、ようやく気づく。

 涙腺のゆるんだ目じりからまた雫がこぼれ落ちそうになって、春の夜風と涙と鼻水を一緒に飲みこんだ。民家の明かりに照らされた桜の木の梢が揺れている。
 小さなつぼみたちが、別れの日はもうすぐそこまで来ていると告げていた。



 大学から帰るその足で、武の部屋を訪ねた。この一週間、武は社長命令で有給休暇を取らされたらしい。インターフォンを押すと、髪を下ろしたままの武がすぐに姿を見せた。手にはトランペットを持っている。

 おじゃましますと言いながら、吹いていたのかと聞くべきか考えた。

 テーブルの上にはいくつもの譜面と、古い教則本が並べられている。置きっぱなしの携帯電話が振動する。武は素早く手に取って内容も確認せずに電源を切った。一瞬、画面の中に女性の名前が見えた気がした。心臓がじくじくと痛む。その女性がいったい誰なのか、聞いたっていいことは何ひとつないだろうと思い、小雪はこっそり息を吐いた。

 気を紛らわせるために、『トランペット入門』と書かれた本を手に取る。
武が肩をよせてきた。小雪を包むように腕をのばし、ページをめくる。

「中学のとき、親父が買ってきたんだ」

 内容はトランペットの音が鳴るしくみに始まり、部位の説明や構え方など、初めてトランペットを握ったものにも理解できるように書かれている。端は擦り切れて破れているところもあるが、鉛筆の書き込みが無数にあり、愛用していたのがよくわかる。

「ふりだしに戻る、だな」

 そう言って小雪から体を離し、トランペットを構える。真横で構えるしぐさを見ると、震えが起きそうなほどの迫力を感じる。けれど武はマウスピースに口をつけるところまでしかしない。ベルには消音ミュートがはめられているが、吹き始める様子はなかった。

「アンブシュアが安定してないから、ここまで」

 脱力するようにトランペットを下げると、指をくちびるにあてた。現役時代はいつもあった上くちびるの吹きだこはすっかり消滅しているようだった。
 ふと目が合う。くちびるばかり見つめていたことに気づき、あわてて視線をそらした。
 生温かいくちびるがかぶさってくる。

「……吹けなくなってること、気づいてただろ?」

 そう言ってトランペットをテーブルの上に置く。整った面立ちがすぐ目の前にある。この一週間で、休暇のとれた体は血色を取り戻した。入院中、まばらに生えていた髭はきれいに剃られ、彼が社会生活に戻ろうとしている気配を感じる。
 小雪がうなずくと、武はまたくちびるを塞いだ。舌が侵入してきて、瞬く間に思考回路をかき乱してしまう。

「おまえは何にも言わないんだな」
「……誰だって、思い通りにいかないことはあるよ」
「……小雪も?」
「私は……もう全然、何にも思い通りになんかいってない。あと一年で大学を卒業するのに、自分の生きる道も決められない。私ひとりだけフラフラして、情けないよね」