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わたなべめぐみ
わたなべめぐみ
novelistID. 54639
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切れない鋏 6.小雪の章 古小箱

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 透き通るように黒い瞳の中に慎一郎がいた。武もいた。彼らの両親もいた。血のつながりはなくても、みんな愛美と一緒に手をつないでいる。きっとこの先も会うことのない慎一郎の両親や、武の生みの母も見える気がした。皆つながって、その真ん中に愛美がいた。

「……きらいになんて、なるわけないよ」

 胸の震えをこらえながら、小雪は言った。それでもまだ泣いてはいけないと思った。愛美は声を上げて泣き始めた。幼子のように素直な声で泣きじゃくって、小雪にしがみついた。もう片方の手は信洋の服を握っていた。
 信洋の温かい手が小雪の肩に乗る。伝わってくる温もりが、泣いてもいいよと言ってくれる気がした。

 こらえきれなくなった涙が、次から次へとあふれだしてくる。「愛美」とか「ごめん」とか言いたいことはたくさんあったがつながらなくて、鼻水をふくこともできずに泣いた。

 冷たさの中にやわらかな温もりを帯びた風が頬をなでていく。愛美の尽きることのない涙が服を濡らす。その心地よさに身を委ねたくて、涙が枯れるまで泣き続けた。



 おごってと言われたものの、春休み中のため生協の二階にあるカフェテリアは閉まっていた。結局、一階の売店で缶入りのロイヤルミルクティーとブラックコーヒーを買い、外に設置された休憩所で飲むことにした。
 愛美は熱い缶を両手で包んで、泣きはらした目でにっこり笑った。

「ノブと小雪と一緒に飲む紅茶は最高においしいねー」

 照れるそぶりもなく、さらりと愛美は言う。聞いているこっちが恥ずかしくなって赤面することも、懐かしいくらいだった。

 雨ざらしになって朽ちた木のテーブルの上に、信洋が譜面を並べる。二人の会話を聞いていると、愛美がバンドマスターを務めるビッグバンドが、武の最後のライブでの前座を務めることになったらしい。武と愛美が仲直りをしたわけではなく、以前から綿谷が兄妹二本立てのライブを望んでいたそうだ。

 武の話をするたびに愛美は口を尖らせていたが、曲のラインナップは兄への思慕にあふれていた。

 このところ練習し通しだった『ディナー・ウィズ・フレンズ』をはじめ、カウント・ベイシー楽団の看板曲でもある『コーナー・ポケット』、ラテンのリズムとジャズの4ビートが融合した『ナイト・イン・チュニジア』と、トランペットの華麗なソロを含むものばかりだ。

 武の飛び入り参加を見込んでの曲選びは、愛美の主導で瞬く間に進んでいった。

 その間、信洋は冷静さを徹底しているように見えた。感情の起伏をかくすことが苦手なはずなのに、武の名前を平然とした面持ちで口にする。バンドのドラマーとしてぶれない姿勢を見せようとするところが、信洋らしく、一方ではそんな面もあったのかと、小雪の胸を痛ませる。

 最後まで悩んだのが『ハウ・ハイ・ザ・ムーン』だった。武のコンボが演奏する可能性があるのはもちろんのこと、ビッグバンドの譜面はソロの小節数だけでなくバッキングも固定されている。武が目指す自由な演奏はできない。

 その上、カウント・ベイシー楽団の曲の中では数少ないアルトサックスソロとトロンボーンソロが含まれている。そこにまでトランペットソロを組みこむのはどうかという懸念もあった。

 結局、この曲に関しては保留となり、信洋が立ち上がった。もうすぐパート練習が始まる。新入生歓迎ライブに出ない三人は、後輩たちの練習を見なければならない。
 小雪も空き缶を片づけようとすると、愛美が引きとめた。言い残したことでもあるのかと思って信洋に目配せしたが、愛美は彼にむかって手の甲を払った。

「今から女同士の話をするの。ノブは先に帰ってて」

 真剣な表情を作ってそう言う。彼女の本当に真摯な表情はピアノの演奏中にのみ生まれるのだが、時としてこんな風に有無を言わさない顔をする。愛美の迫力に押されて、大抵の人間は引き下がってしまう。

 「女同士」などという言葉を使われてなお、その場に居座ろうとする男子学生はそういないだろう。信洋もたぶんに漏れず「じゃああとで」と言って立ち去った。
 愛美は満面の笑みで「バイバーイ」と手を振ると、くるりと小雪に向き直った。

「小雪、やっとタケ兄と結ばれたんだね」

 瞳を可愛らしく潤ませながら、愛美はそう言って手を握った。まわりくどい感情の一切を取り払ったその表現に、小雪の顔は燃え上がりそうなほど赤くなった。

「え……ちょ、ちょっとまって。そんなこと誰にも……」

 あの武が妹にそんな暴露話をするはずがないと思いながらも、ここ数日のことが蘇って、顔を直視できないほど頭が混乱する。

「えーだって小雪のお肌つるっつるじゃない。好きな男の人に愛されて女は美しくなるって本当だったのね。小雪ってばほんとにもう可愛すぎる」

 そう言って両手で頬をなでてくる。武に頬をなでられたときの感触が蘇ってきて、ますます心臓は暴れる。

「本当はずっとタケ兄が好きだったんだよね。経験ナシの私が言うのもなんだけどさ、今までの分までいっぱい愛されてよね。それでいつか二人が一緒になれば、私は小雪のお義姉さん? やだーもう最高すぎる」

 戸惑う小雪を取り残して、愛美は声高にそう言った。それから急に、肩を落とした。

「もうすぐ結婚しちゃうってことはわかってるよ。でも夢を見るくらい、いいじゃない? どうして現実ばっかり見ないといけないの? 私は小雪に幸せになってほしいだけなのに」

 愛美の大きな瞳にいっぱいの涙がたまっている。暗い感情にふたをしてどんな時でも明るい笑顔をふりまいてくれた愛美が、くちびるを震わせている。

 慎一郎がいなくなって以来、現実から目をそらさなければ生きてこられなかった。
 表現の仕方が違うだけで、彼を取り巻いていた人たちがみんなそうだったはずだ。

 初めのうちはそれでもよかったが、無情な現実は次々と小雪たちに難題を押しつけてくる。跡継ぎになった武、毎年やってくる追悼セッション、心に空いたままの大きな風穴、放置されて朽ちていくオリエンテのベース――

 現実と向き合うため、小雪はベースを手に取った。譲り受けたベースを弾くことこそ、慎一郎がこの世に存在しないことを証明する唯一の方法だった。

 その姿を武に見せて、現実の世界に生きる幸せを見つけてほしかった。自分の中に慎一郎の残骸など探さずに、強く猛々しくトランペットを吹き鳴らす有川武の姿を見せつけてほしかった。
 それは独りよがりな願いで、武はトランペットを構えられなくなってしまった――

 また涙があふれ出しそうになって、小雪は愛美のやわらかい肩に顔を押しつけた。

「明日から……出社するんだって。たぶんその先はもう、会えない……」

 武は決して口にはしなかったけれど、身に染みるように感じていた別れを口にした途端、自分を囲っていた鉄柵は見る間に溶けてしまって、愛美にしがみついた。

「タケ兄がどっかいっちゃうなんて……いやだよう」

 声が震えて、鼻の奥が痛くなって、どうしようもなかった。誰にも言えなかった本音は、涙と一緒に情けなく垂れ流しになって愛美のニットを濡らした。