切れない鋏 6.小雪の章 古小箱
6.小雪の章 古小箱
よく晴れわたった昼下がり、小雪は大学に向かっていた。大学入試との兼ね合いもあって数日のあいだ練習室の使用が禁止になっていたが、この日は新しいレギュラーバンドの練習がある。小雪だけではなく、愛美や信洋も二軍バンドに所属することが決まっている。
休むことに引け目すら感じてしまう一軍バンドと違って、二軍はその他大勢が集まる気楽な集団だ。アルバイトを優先させるもの、研究に忙しいもの、部活のかけもちをしているもの。みなそれぞれに事情があり、バンド練習を優先させる必要はない。
雑多な分、演奏のレベルは落ちるが、ジャズらしい肩の力が抜けた演奏ができることも小雪は好きだった。
四回生になれば新入生の勧誘を必死になってやる必要はない。歓迎ライブにも出演しないので、他人事のように練習に集中できる。
舞台が組まれる予定の中庭を歩きながら、スーツ姿のまま舞台に上がった武の姿を思い出す。演奏の真っ最中なのに、下手にある階段も使わず、舞台のど真ん中から引き上げられていた。観衆のどよめきをよそに、後輩の銀メッキトランペットを押しつけられた武は、最初からそこにいたかのように演奏を始めた。
舞台の脇にいた当時の部員たちが指笛を鳴らす。リズムセクションのメンバーが満面の笑みで武のトランペットに調子を合わせていく。終始、控えめだったベース奏者が、武に導かれてソロを披露する。鳴っているのは4ビートのかなめになるハイハットと、コードを示すほんの少しのピアノ。ベーシストの指が自在に弦の上をすべっていく。時折目配せをして武と笑みを交わす。武は指でかすかにクリック音を鳴らしている。
ソロの最後の小節でランニングベースに戻り、プレイヤー全員でテーマを演奏し始める。ベーシストは何事もなかったように自分の仕事に戻る。
私がやりたいのはこれだ、と確信した。武の目がくらむようなトランペットの演奏を支えるために、私はベースを弾く――そう決心した。
誰かが坂を登ってくる。仲よさそうに笑いあっていたのでカップルかと思ったが、愛美と信洋だった。
彼らも今日の練習に参加する。新曲のパート練習があるのだから、気まずくても避け続けることはできない。意を決して小さく手を振ると、信洋が答えた。愛美はわかりやすくそっぽを向いて、進路変更した。
怒った背中に信洋があわててついていく。コートを着ずに手に財布を持っているところを見ると、生協に向かおうとしているのだろうか。信洋が何度かこちらを見たが、小雪は追うことはしなかった。
パート練習まで少し時間がある。まだどの曲を担当するかも決まっていないが、いつでも弾けるように候補曲のコード進行は確認しておこうと思った。
音楽と真面目に向き合っていれば、きっとまた愛美はこちらを向いてくれる。高校時代から今までにやってきたケンカとの質の違いはよく分かっていたけれど、他に方法が見つからない。頬にふきつける風はまだ冷たい。
音楽練習棟に向かう坂を下りていくと、うしろから信洋が追いかけてきた。
名前を呼ばれて、小雪はふりむいた。大きくて分厚い手のひらが遠慮がちに肩に乗る。
「マナ……が、こっちに来いって……」
一週間ぶりに聞く信洋の声だった。口もとから温かな呼気が吐きだされる。ずっとこの優しさにもたれかかって過ごしてきた。自ら手放したものの大きさに今さら気づく。
うつむきがちに小雪を見たあと、坂の上に視線を送った。腕を組んで仁王立ちした愛美が小雪を見下ろしてくる。
信洋が小雪にふり返りながら坂を登っていくと、「連れてくるの!」と愛美が声をあげた。
小雪は呆然とその光景を見ていた。すると戸惑いながら戻ってきた信洋が小雪の腕を引いた。強いけれど無理強いはしないその力に懐かしさを感じて、素直に従った。
愛美は相変わらず背中を反らせて腕をほどかない。眉を吊り上げて小雪を睨む。私は怒っている、というときの愛美のポーズだ。隣に立ったものの何を話していいかわからない。
信洋も所在なさげにしている。
突っ立ったままの彼に譜面の束を押しつけ、愛美が口を開いた。
「今からライブの曲決めするんだから、小雪がいないと困るの!」
愛美はそう言うが、小雪は返答に困った。怒っているのか、嫌われているのか、頼りにされているのかよくわからない。
「ロイヤルミルクティーがいい」
突如そう言われ、話の先が読めなかった。いつもの癖で信洋に目配せすると、彼も視線が彷徨った。愛美は二人同時に手をつかむと、生協にむかってぐいぐいと引っぱり始めた。
「小雪は私にロイヤルミルクティーをおごるの。それでもうおしまい!」
声はまだ怒っているが、ちらりと見えた横顔は目じりが下がって今にも泣きだしそうだった。美しいウェーブのかかった髪から、スタイリング剤の香りがする。手首からふんわりとわき立つ愛用の香水、マシュマロのように柔らかい愛美の手のひら。
ずっと困惑した表情だった信洋が、笑い声をもらした。腕を引かれながら、小雪は顔を上げた。信洋と目があった。眉を下げた信洋が笑っていて、小雪も思わず笑った。
構内を分断する道路の手前で愛美が立ち止まった。かぶりつくように信洋の服をつかむ。
「こっそり笑ってないで、ノブも自分のほしいものちゃんと言いなさいよね!」
「いや……俺は別に」
「これはけじめなの! 小雪におごってもらうの!」
気圧された信洋が目を丸くして「わかった」とつぶやくと、愛美の顔に光が戻った。春を予感させる陽光が愛美にふりそそいで、頬に笑みが浮かんだ。
愛美に抱きつきたくなったが、小雪は気持ちをかみ殺した。あれだけ怒っていたのだ。いつものようにたわむれることなど、彼女は望まないだろう。
けれど愛美の無垢な笑顔は心の底にたまった澱をすべて溶かしてしまう。双子のように仲が良くケンカもたくさんした次兄がこの世を去っても、彼女を満たす天然のエネルギーは損なわれない。そばに立っているだけで、淀んだ心が昇華される心地がする。
そのことに愛美は全く気づいていなくて、小雪のしぼんだ気持ちを慰めようと、心を砕いてくれる。信洋と付き合うことを勧めてくれたのも、愛美の思いやりだとわかっている。
なのに心は自在に動いてくれなかった。金メッキのトランペットをかかげる武から、どうしても目をそらすことができなかった。
まぶたに熱いものがたまっていく。自分が泣いてはいけない、と思ってうつむくと、愛美が覆いかぶさってきた。
「ごめんね小雪。きらいなんて言ってごめんね。私の自分勝手な思い込みでふりまわしてごめんね。ノブもごめんね。いっぱい傷つけちゃってごめんね」
そう言いながら、愛美はためらいなく涙を流した。かすんだ三月の空を浄化するように愛美の涙はこぼれ落ちた。太陽の光をためた温かい涙が、コンクリートに覆われた道路を濡らしていく。
きらめきをこめた涙は小雪の手を濡らして、固くなってしまった心を溶かす。
「だから私のこときらいにならないで?」
愛美は口元を震わせてそう言ってから、真っすぐに小雪を見た。
作品名:切れない鋏 6.小雪の章 古小箱 作家名:わたなべめぐみ