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命の炎が燃えるとき

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シンイチはサハラ砂漠を旅行したときの話をした。一緒に旅したのは二人。一人はサハラ砂漠を案内するアラビア人。もう一人は、アメリカで知り合った同じように画家を志すスペイン人。アラビア人の案内は不気味であった。何も喋らず、子供のような目をしている。時間になると、何時間でも神に祈る。まるで石のようであった。精神構造が少しも理解できない。陽気なスペイン人は、下手くそな英語を、それこそ何時間でも喋り続ける。 砂漠での夜。恐ろしく静かで、月が手を延ばせば、届くような気がした。他の二人とも早く眠る。シンイチは、一人で沈黙の夜の重さを噛みしめた。その時を絵にしたものである。
シンイチは、絵の話をしながら、ミユキとの日々を回想した。出会い、別れ、再会する。輪廻であり必然だとケイスケは悟った。
「僕の求めていたのが、何であったのかやっと理解したよ」
ミユキは自分に語りかけるように言った。
「シンイチさん、私と一緒に故郷の信州に帰りましょう」
 ミユキはケイスケのもとに帰らず、シンイチのところに泊まった。そして、遠い昔の愛を手繰り寄せた。

翌朝、二人は信州行きの列車に乗った。昨日まで、不安定な天気がまるで嘘のように晴れている。旅立つ二人を祝福しているかのようだ。夜を徹して監視していたトキエも祝ってやりたい気分に駆られた。できるなら、花束と一緒に伝えたい。“遠くへ行け、二度と東京にくるな”と。

二人を乗せた列車がプラットホームを離れるのを確認すると、ケイスケがどんな顔をするか想像しながら、トキエは電話した。意外であった。ケイスケは実に事務的であった。ケイスケには、プライドがあった。も女のことで、心を乱したと思われたくはなかったのである。トキエは見抜けなかった。
行き先を知っているかと聞いた。
トキエは「上野駅まで行ったのは知っているけど、その先は知らない」と答えた。トキエが黙っていたのは、全てを伝えれば、ケイスケが、ミユキを探し連れ戻すのではないかと恐れたのである。

シンイチとミユキは、A市の総合病院近くのアパートを借り、一ヵ月が過ぎた。
人は死に直面すると、過ぎし日々が走馬燈のように蘇るという。シンイチも夢をみた。それは、ミユキとの出会いであったり、アメリカ、サハラ砂漠の旅であったり、様々であった。
微かな物音で目が覚めた。美しい朝焼けが窓を染めていた。そして、ミユキが女神のように立っていた。
開けられた窓から風が入ってきた。
「いい匂いだ」
「秋にも、色があり、匂いもあるのね、ずっと忘れていたわ」
「金木犀だな」
ミユキはうなずき、シンイチを見つめた。死は少しずつ、シンイチに忍び寄っている。少しずつ痩せてきている。決して治ることはない。病院に入るとき、医師にそう言われた。
「悲しい顔は見せない約束だろ?」
「ごめんなさい」

ケイスケは夢を見た。
そこはどこだろう。ミユキが背をむけ、服を脱いでいく。白い肌が少しずつあらわになっていく。物音ひとつしない沈黙の世界。ミユキの動きが音楽のように見える。ケイスケが声をかけようとするが、声が出ない。手を振っても、彼女の目に止まらない。足が金縛りにあったみたい動かない。そうこうしているうちに、ミユキは最後の下着まで脱いだ。ケイスケは体を動かすのを諦めた。暗くなった。が、それは一瞬であった。再び、部屋の中が月の光で満たされたとき、ミユキは光の方を向いていた。不思議な話であるが、初めて見たような深い感動に包まれた。足音がする。ミユキの視線が音のする方に向ける。ケイスケには何も見えないのに、ミユキは微笑む。翼を拡げるように、手を差し延べる。暗闇から一人の男が現れた。月の光が弱くなったのか、ぼんやりとしかケイスケの目には映らない。どこかで出会ったような気がした。男はミユキの髪を撫ぜ、腰に手を回し、強く抱き締める。やがて、二人は唇を重ねた。ケイスケは直視できなかった。必至に叫んだ、「恥を知れ、ミユキ」と。が、二人は溶けあったかのように一つになって微動しない。近づこうにも、ケイスケの体は動かない。
ケイスケが夢から覚めた。時計を見た。既に午前三時を過ぎている。しばらくすると、カーテンの隙間から月明かりが洩れていることに気付いた。カーテンを開け、空を見上げると、まるい月だった。
ケイスケはタバコに火をつけ、グラスにウオッカを注いだ。そして窓辺の椅子に腰掛け、映画のフィルムを逆向きに写しだすように、夢の中の出来事を何度も回想した。その度に怒りは高まり、その怒りはグラスにぶつけられた。グラスを壁に叩きつけた。
ケイスケはミユキを忘れようとすればするほど、かえって思い出さずにいられなくなった。何かすると思い出すのが嫌で、酒や愛人やトキエとのセックスに溺れていったが、忘れることができなかったばかりが、逆にどんなに深く愛しているかを思い知らされたのである。

ミユキのアパートに一人の老いた女が訪ねた。老いた女はケイスケの母だった。つまり義母であった。
ケイスケがトキエにミユキの居所を調べさせ、それを義母に教え、さらに連れ戻すように泣きながら頼んだのである。
「良い部屋ね」
義母はミユキの出したお茶を優雅に飲んだ。
「安い部屋ですけど」とミユキは応えた。
「シンイチさんも一緒に住んでいるの?」
「入院しています」とミユキは呟いた。
「おかしなものね。ここまで来る途中、ミユキさん、あなたに言う文句を色々考えてきたのに、いざ言おうとすると、何も言えない」
世の中、理屈では理解できないことが多々ある。ケイスケの母は、人にも厳しいか、それ以上に自分に厳しい。この母からいかにしたら、ケイスケのような自分勝手でわがままな子供ができるのか、ミユキには分からなかった。
「言ってください。その方が私の気が晴れます」
「いいえ、悪いのは、みんなケイスケです。男としても、夫としても失格です。でも、私のたった一人の息子です。あの子は、あなたがいなければ、生ていけません」
義母は手をついて頼んだ。
「戻ってやって下さい」
ミユキは、憐れみを感じが、だからといって、戻る気は起きなかったので、決して戻るとは言わなかった。決意が固いと分かると、義母は諦めた。
「分かったわ。帰る」
義母を駅まで見送った。
電車が動き出した瞬間、義母はミユキに微笑んだ。その悲しげな微笑みは、一生、ミユキは一生忘れないかもしれないと思った。

入院していたシンイチの容体が急変したのは、義母が帰った翌日である。昼頃、ミユキに電話があった。看護婦からであった。実に事務的な話し方で、死が近いことを暗示した。
「大丈夫ですか? 聞いていますか?」
電話の主は不安を覚えたのであろうか。
「ええ、大丈夫です」
受話器を置いたミユキは、急いで、病院に向かった。

病院はいつもと変わらず静まりかえっていた。病室にシンイチはいなかった。ミユキは看護婦に尋ねた。看護婦は顔を曇らせた。
「とても、残念ですが、もう、お亡くなりになりました」
事実は一瞬でも、その事実を受入れには時間かかかる。受入れたときは、遠い過去の記憶でしかない。残るのは、人にはどうしょうもない現実のみである。
作品名:命の炎が燃えるとき 作家名:楡井英夫