生きてきたという痕跡
京子が子供を産んだというのは初めて知った。不実な女ではなかったが、皆川の目の届かぬところでいろんな男と恋をした。この俺とも。別に結婚していたわけではないから、咎められることではない。が、そういった一面があったことを、皆川は知らない。はたして、京子が産んだ子は本当に皆川の子なのか? 他の男の子、ひょっとしたら俺の子供という可能性も否定できない。なぜなら、京子を抱いたことは一度や二度でなかったから。
「どうした? 汗が流れているぞ」と皆川が睨む。
「自分の子供であったら……」と想像したら、自然と冷や汗が流れてきたのである。馬鹿げた想像だと不安を打ち消そうとするものの、一向に不安は消えない。
「この病室は暖房が利きすぎて暑い。気にするな。話を続けてくれ」と皆川に言った。
「会いたい。俺が生きてきたという大切な痕跡だ。それを確かめずには死ねない。自分は強い間だと思っていた。でも、そうではなかった。夜になると、心細くて、泣いている。お前と二人でいろんなことをやったな。闇金まがいなことや、地上げや、やりたい放題やった。だが、お前は突然、足を洗い、俺の目の前から消えた。なぜだ、俺が嫌いになったか?」
「嫌になったわけじゃない」
「何があった?」
「忘れたよ」と笑った。
足を洗ったとき、それまで付き合いのあった連中と全て縁を切った。ただ、皆川とは、縁を切らなかった。足を洗うきっかけを作ったのは、ユリという女だ。四十を越えていたのに、年甲斐もなく本気で惚れた。「一緒に暮そう」と言ったら、「危ない仕事をしている人とは一緒にならない」と言ったので足を洗った。だが、足を洗って数か月後、ユリは不慮の事故でこの世を去った。甘い夢はそこで潰えた。
「話したくないのか?」
不器用な笑みを浮かべ、「忘れただけさ」と答えた。
「言いたくなければ、聞かない。頼みさえ聞いてくれればいい。もちろん、謝礼はする」
皆川を見た。今にも泣きだす子供みたいな顔をしている。
「探してみるが、期待はするな」
「そう言ってくれると思った」と皆川は嬉しそうな顔を見せる。
京子の実家があるというT町に行った。浜辺にあった。古い家で、随分前から人が住んでいたという気配がない。近くの浜には、見捨てられたような漁船が何艘もある。
近所の人に聞いてみた。
「立花さんなら、みんなで引っ越ししたよ。確か『B町に行く』と言ったかな。その後のことは知らない。もう十年も前の話だよ」
近くに住む老婆が笑いながら教えてくれた。
皆川に報告した。
「もう引っ越したみたいだ。微かな痕跡を頼りに探すのは難しい。一人では、とても無理だ」と言った。
なぜ、「難しい」と言ったかというと、諦めさせようと思ったからである。京子との美しい思い出のままにしておいた方が良いとも思ったからである。
「金は幾らでも払う。手付金を払おう」と言って鞄から封筒を取り出した。
「百万は入っている」
意外だった。命よりも金を大事にしていた彼が、あっさりと百万も出すとは。
「気は確かか?」
「前にも言ったはずだ。俺は病人だ。もうじき死ぬ。死んでいく人間にとって、金は単なる紙屑だ」
封筒を受け取り、中身を確認せずポケットに入れた。
数人の探偵を雇った。B町で立花という姓の人間を探させた。数後、それらしい家族が見つかった。祖母と少女の二人が県営のアパートで暮らしていた。少女の名は美香。そいつがどうも探している皆川の子供らしかった。少女は十七歳になり、小さなスーパーでバイトをしながら夜間高校に通っているという。
休日の早朝、二人が住むという県営アパートに行った。
アパートの入口に入ろうとしたら、運がいいことに、すらりと長身の美しい少女が出てきた。探している少女と直感した。
「立花美香さんだね?」と声をかけた。
少女はうなずいた。
「俺は青木慶介。探偵をしている。ある人に頼まれ、君を探していた」
なぜか本当の名を言わなかった。
「私を?」
「そうだ、君だ。詳しい話は近くの喫茶店でしたい」
近くの喫茶店が入った。店内は閑散としていて、古い音楽が流れている。
窓側の席に座り、コーヒーを注文した。コーヒーを飲みながら、それとなく見た。澄んで瞳をしている。それに顔も整っている。京子のように目立たない感じではなく、どちらかといえば、彫が深く、目鼻ははっきりしている。どことなく自分の顔に似ているような気もする。そう思った瞬間、寒気がした。
「顔に何かついている?」
「いや、とても美人だから、驚いている」
「それ、褒めているの?」
「ああ、そうだ」
「でも、どんなに褒められても、オジサンに興味ないよ。オジサンは苦み走ったいい男だけど」
思わず苦笑した。
「かまわない。こっちもケツの青い小娘に興味がない。本題に入っていいか?」
少女は少し強張った顔でうなずいた。よく見ると、京子の面影もある。目のあたりや口の周りなどに。
「君のお父さんのことだ」
「死んだと聞いています」
「誰に?」
「おばあちゃんに」
「そうか。でも、本当は生きている」
「そんなの嘘よ。生きているなら、なぜ十七年も放っておいたの?」
「それは分からないが、今、会いたいと思っている」
少女は微笑んだ。
「私は会いたいとは思わない」
「君のお父さんに頼まれて、ずっと探していた。会ってくれれば、君の夢を叶えられるかもしれない」
「私の夢が分かるの?」
「今は分からないが、いずれ分かるさ」
少女が、また微笑んだ。
「夢は自分の力で実現する。たとえ何年もかかっても。その、お父さんとやら言って、『私は一生会わない』と」
毅然とした口ぶりに閉口した。
皆川の病室に訪れた。
「お前の子は娘だった。美香という名だ」
「綺麗か?」
「とても綺麗な別嬪さんだ」
「そうか」と皆川は嬉しそうな顔をした。
「娘は、『会いたくない』と言っている」
「当然だろうな。今まで一度も会っていないから。でも、何とか、ここに連れてきてくれ。会いたい。俺が生きてきたという痕跡だ」
「強引に?」
「それは困る。死ぬ直前まで、人の恨みを買いたくない。まして実の娘からは。何とか説得して連れてきてくれ」
「嘘をついてもかまわない?」
「何でもいいさ。だが、力づくはだめだ」
「お前も変わったな」と呆れたように言うと、
「改心した。今さら遅いかもしれないが」
「遅いよ」と笑った。
「頼む。連れてきてくれ。京子は良い女だった。お前が言うように、ひっそりと咲く朝顔みたいな女だった。どうして、あんな良い女を捨ててしまったのか。やるだけやって、飽きたら捨てた。子供まで出来たのに……」と後悔の念で満ちた顔をした。思わず、「安心しろ、お前の子じゃないから」と言いそうになった。
翌日、美香に会った。
「君の夢は看護婦になることだろ? 看護婦というのは、人助けが仕事だろ? お前のお父さんは死にそうだ。助けてやってくれ。もう先がない。俺の古い友でもある」
作品名:生きてきたという痕跡 作家名:楡井英夫