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生きてきたという痕跡

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『生きてきたという痕跡』
 
 梅の花も咲こうという二月の初め、突然、数年前まで一緒にビジネスをやった皆川隆司からの電話があった。
「久しぶりだな」と皆川が言う。
 予想もしなかった電話に戸惑っていると、「迷惑か?」と聞きいてきた。
 仕方なしに、「何か用か?」と聞き返した。
「相変わらず、せっかちだな」と笑う。
「今、病院に入っている。新潟のA病院だよ。昔、通っていた高校の近くだ。知っているだろ?」
「知っているが、どうして病院にいる?」と聞くと、
「電話で簡単に話せない。深刻な状況だよ。『昔、俺のことを、『悪運が強い男』と言ったな。その悪運が尽きたよ」と笑う。
 皆川は、どんな無茶をしても大事に至らず生き延びてきた。蛇のような強い生命力があり、性欲も人並み外れて強かった。それゆえ、「簡単にくたばらない」と信じていた。それに、まだ五十を少し過ぎたばかりである。その彼が病院にいるとは信じられなかった。
「行けるとしても、一週間後だな」と答える。
「なるべく、早く来てくれ。首を長くして待っている」
 喋り終わると、皆川は直ぐに電話を切った。彼も劣らずせっかちな男である。
 電話の後、幼い頃を思い出した。新潟で、ともに貧しい家庭で育った。小さいときから兄弟のように仲が良かった。高校を出ると、一緒に東京に出て、二十年前、一緒にビジネスを始めた。それからやりたい放題のことをした。彼はビジネスを続けているが、自分は五年前に足を洗った。
 一週間後、皆川に会いに行うために上越新幹線に乗った。新潟駅を降りた。晴れているのに、雪がちらついている。街が大きく変わっていることに驚いた。昔のことが蘇ってきたが、良い思い出は何一つなかった。それゆえ感動もしなかった。貧しくて、日がよく当たらない、迷路みたいに細い道が複雑に入り組んだ所で、母と妹と暮らした。ただ、それだけのことである。母が死に、妹は遠くに嫁ぎ、今は係累がいない。もう、どうでもよい所である。
 
 皆川が入院しているという病院というのは、海辺近くにある古い病院である。駅からタクシーで病院まで行った。大きな病院で、海を背にして、松林に囲まれている。
 彼は個室に入っていた。初めて見たとき、痩せ衰えている姿に言葉を失った。
「幽霊を見たような顔をするなよ。急ぎの用はあるか?」
「無いから、こうやって会いにきた」
「じゃ、座ってくれ」と皆川は椅子を指さした。
座ると、「ついていない」と自嘲気味に呟いた。
 顔には、人生が出る。あくどい仕事をしてきた皆川はまるで蛇みたいな顔している。眼光が鋭く、相手にちょっとの隙でもあれば、食らってしまうような恐ろしい顔である。笑顔が似合わない。実際、笑うと、実に奇妙に見える。まるで化け物が笑っているような不気味な感じがする。
「全くついていない」とまた呟く。
「いったい、何がついていない?」
「ガンにかかっている。医者に言わせると、もう助かる見込みがないそうだ。二、三年前から具合が悪かったのに、ずっと医者に行かず、酒とたばこ、それに女を愛し続けた。それが、このざまだ。『こんなひどくなるまで、よく我慢していましたね』と医者に言われた。どんなに生き延びても、半年か一年が限度だという。情けない。嫁には逃げられた。たくさんの敵を作って、何十億という資産を作り上げたが、その資産も、あの若い男と逃げた嫁に持っていかれると思うと情けない。苦しめてやろうと思って、離婚をしなかった。今も隠れている。探させているが、見つからない。都会の片隅で、ゴキブリのように生きているのだろう。だが、そんな虫けらに財産が残る。滑稽だろ?」
「嫁はカナコと言ったか?」
 皆川はうなずく。
 カナコは美人だが、アバズレ女という言葉が似合う女であった。皆川の嫁となってから、いつも叩かれていた。飯がまずいとか、他の男といちゃついていたとか。いろんな難癖をつけられ叩かれた。耐えきれず若い男と夜逃げ同然に消えた。
「見つけて、どうする? 海にでも沈めるか?」
「海に沈める前に、一緒に逃げた若い男を、目の前で八つ裂きにしてやる」と蛇の目が光る。
「俺にカナコを探せとでも言うのか?」
「結論を急ぐな。そんなつまらぬことを頼むために呼んだわけじゃない。今までやりたい放題やってきた。そのつけがきた。だが、まだ五十一歳だ。死ぬには早過ぎやしないか? あと十年、生きられたら、心を入れ替えて良いこともできたのだが」
「心を入れ替えるのは無理な話だな。蛇のように執念深い悪党だよ」と笑う。
「確かに俺は蛇だ。一度狙った獲物は決して諦めない。だが、俺が蛇なら、お前は何だ? 人の生皮を剥ぐ鬼に見えるぞ」
 確かに鬼と呼ばれた時もあった。だが、足を洗った。
「昔のことだ。もう昔話はいいだろう。で、いったい何の用だ?」と聞いた。
 皆川は外を見ていた。青い空が見える。遥か彼方に雪を戴きながら連なる山脈がある。まだ冬なのだ。山並みを眺めているうちに、昔を思い出してしまった。幼い頃、雪の降る日、震えながら、狭い部屋で妹と抱き合って寒さをしのいだ。春がどんなに待ち遠しかったことか。
「俺の言うことを聞く奴はいる。弁護士もいる。が、みんな腹黒い。お前は違う。一度も裏切らなかった。だから、お前に頼みたいことがある」
 確かに皆川を裏切ったことはない。少なくとも表面的には。裏切らなかったのではなく、皆川に付け入るような隙がなかったのである。彼はそれほど用心深い。
「話によっては、聞いてもいい。で、頼みとは、何だ?」
「もう十八年以上も前だ。ゴミ箱みたいな横浜の黄金町にスナックの『灯(あかり)』という店があったのを覚えているか?」
 時間を逆さに回した。ゆっくりと記憶の底から蘇る。
「思い出したよ」
「そのスナックに京子がいたのを覚えているか? 同じ新潟出身の京子だよ。お前も、何度も見ているはずだ。一時、夢中になって愛した。その京子が身ごもったとき、急に愛がさめた。『子供を下ろせ』と言って金を渡して別れたが、京子は子供を下ろさなかった。その子供を探してくれ」
 京子という名前でいろんな思い出が蘇った。古い街並み、曲がりくねった道、スナックの賑わい、たばこと酒が混じった匂いの中でいつも微笑んでいた京子。皆川が京子を愛していたのは事実だが、他にも女がいた。その頃の彼は、まるで盛りのついた犬のように、いい女を見つければ、力づくでも、ものにした。
「京子か、思い出したよ。良い女だったが、弱そうな感じがしたな」
 日陰にひっそりと咲く朝顔のような女だった。実をいうと、自分も何度か抱いたことがある。形のいい乳房をしていた。
「かわいそうなことをした。京子は新潟に戻り、子供を産んだ後、すぐに死んだ。その後、親が生まれた子を育てたと聞いている。京子の実家は新潟市の隣のT町という港町があった。そこで親が海辺で漁師をしていた。今は分からない」
「仮に見つかったら、どうする?」
「会いたい。そして俺の生きてきたという痕跡を確かめたい」
「生きてきたという痕跡か……会いたくないと言ったら?」
「だから、お前に頼む。お前は誰が見ても、優しそうで善い人のように見える。それに口説くも得意だ」と皆川は笑った。
作品名:生きてきたという痕跡 作家名:楡井英夫