切れない鋏 1.小雪の章 積雪
左腕にだるさを感じて肩を回していると、隣に立つ信洋がもみほぐしてくれた。首筋にたまった緊張がゆっくりとほどけていく。
高校時代は柔道部に所属し、背は低いが分厚い胸板と太い手足を持っている信洋は、プロ並みにマッサージがうまい。学科ではスポーツ医学を専攻しているらしく、整体師として開業できるのではないかと、小雪は勝手に思っている。
信洋は一年浪人しているので、同じ三回生でも年は小雪より一つ上だが、誰にでも柔和で親切な彼は、年上だということをほとんど感じさせない。
ようやく客席に座ってミルクティーを注文すると、疲労と眠気が急激に襲ってきてテーブルに突っ伏してしまった。
「ごめんな、バイトのあとなのに呼び出しちゃって」
信洋といると、家で過ごしているときのようにリラックスしている自分に気づく。くしゃみをすれば風邪かと心配してくれるし、疲れたと言えばと労わってくれる。自分が信洋にしてやれることなど何もないのに、彼はいつも無条件の優しさを分けてくれる。
真っ黒の短い前髪と太い眉毛を見ながら、おにぎりのようだと思った。おなかが空いているときに食べるとホッとする。冷えた心をゆっくりと温めてくれる。とがっていた気持ちが自然と優しく丸くなれる。
「こっちこそごめんね、ろくに返信できなくて」
「いいよ、バイトで忙しいんだろ。今日会う約束をしておかないと、年明けに授業が始まるまで会えないんじゃないかと思って、焦ってたんだ」
そう言って眉を下げて、小雪の手を取った。大きく色黒な手から熱が伝わってくる。
テーブルの真横に店員が立つと、信洋の手がさりげなく引っこんだ。
節の太い指がミルクピッチャーを取って、カップの中にミルクを流し入れる。銀色のティースプーンでかきまぜてから、小雪にさし出してくれる。
数回のデートで小雪の好みの味を覚えた信洋は、どこに行っても同じ調子でミルクを注ぐ。席に着けばおしぼりの封を空け、和食のときは割りばしまで割ってさし出してくれる。
初めの頃は落ち着かない感じがして断ることもあったが、信洋の動作があまりに自然なのでいつの間にか慣れてしまった。
武といるときは幾度も強烈な自己嫌悪が襲ってくるのに、信洋と過ごす時の自分はそう悪いものではないと思わせてくれる力が、彼には備わっているようだった。
「武さんが言ってたアート・ブレイキーの『モーニン』のことだけど」
心の隅に巣食う武の幻影を追い出そうとしていると、信洋がブラックのコーヒーに口をつけて言った。「タケ兄」ではなく、トランぺッター有川武の姿に頭を切り替えていく。
「あの曲、俺もやりたいんだよね。練習前の音出しで武さんが何気なく吹いていたから、こっそり合わせていったことがあるんだけど、もう鳥肌ものだった。なんとか小雪のお姉さんを説得できないかな」
「私には無理。あっさりあしらわれたもん」
「そこをなんとか」
「じゃあノブが頼んでよ。紗弥ちゃん、ノブのこと結構気に入ってるみたいだから」
平伏するように頭を下げていた信洋が顔を上げた。驚きすぎているのか、口が変な恰好でへの字に曲がっている。
「嘘だろ。俺、ものすごくガン飛ばされてると思ったのに」
「いつもあんな感じだから気にしなくていいよ。実直そうな雰囲気がいいって言ってた。少なくとも今まで連れて行った中では一番、好評価……」
失言に気づいて語尾をごまかそうとしたが、別れた男の存在に気付いた信洋は、微笑みながら傷ついていた。体は熊のように大きく湖のように広い心を持っていても、些細なことですぐ傷つく繊細さも備えている。
「俺なんかにあの人を説得できるのかなあ……」
弱気になった信洋をからかいたい気持ちが湧いてきて、「ファイト、ノーブ」と言うと、彼は突然、真剣な面持ちになって言った。
「小雪は武さんとやりたいと思わないの?」
思わぬ言葉にミルクティーを飲む手を止めた。店内のざわめきが体内に侵入して心臓をかき乱していく。すぐ隣で寝息を立てている武の顔が眼前にちらつく。
「そりゃあやりたいけど」
声が震えそうになるのをこらえてそう言った。カップを握る指先から感覚が遠のいていく。うっかりこぼしてしまわないように、慎重にソーサーの上に乗せる。
「だったらもう少し真剣に対策を考えてくれよ」
受験勉強の傾向と対策みたいな調子で言い始めたので何だかおかしくなってしまい、意図せず吹き出してしまった。信洋は指で頬をかいている。
「どうして笑うかなあ」
「どうせいつもの気まぐれなんだから、『モーニン』への気持ちが醒めるまで待った方が早いと思うよ。はなからやる気のない紗弥ちゃんを口説くなんて、難攻不落の城に真正面から突っ込むのと同じだもの」
「なるほど」
妙に納得した顔でつぶやくと、信洋はコーヒーをすすり上げた。
「じゃあ武さんに吹いてもらうには、俺たちはどうあればいいと思う?」
今度は就職説明会に登場する司会者のような口ぶりだ。周りに影響されやすく、人に対して変に真面目なところが、小雪には新鮮だった。
「ハウハイの演奏レベルをもっと高めることじゃないかな。あの曲はこれからもずっとやりたがると思う。近いうちに」
追悼セッションの話をしかけたが、咄嗟に言葉を切り落とした。
信洋がどんぐり眼をさらに丸くさせて言葉を待っている。
「近いうちにまたやりたいって言ってくると思うよ」
不自然にならないように言葉を繕って微笑んだ。
信洋は頭の中にメモをするような表情で、「なるほど、ハウハイね」とつぶやいた。
愛美や武との付き合いが短い信洋も、小雪を含む当人たちがある事実を言わないようにしていると気づく日が来るだろう。いずれそのことを告げるのは、有川家の面々であってほしいとどこかで願っていた。
たとえオリエンテのウッドベースが目の前にあっても、慎一郎のことをうまく話せる自信はなかった。
初詣の参拝客にもみくちゃにされたあと、ラブホテルに入った。
初めのうちは抵抗があったが、コンビニで商品を選ぶときと同じような調子で部屋を選ぶ信洋の姿を見ていると、しだいに嫌悪感は薄れていった。
ガラスの壁に覆われたバスルームや、中央にどんと置かれたクイーンベッドがセックスをするための部屋だと主張しているのに、信洋は自室のような気軽さでテレビのスイッチを入れる。
全身にのしかかる疲労に負けた小雪は、Pコートとブーツを脱ぎ捨ててベッドに寝そべった。信洋も同じようにベッドのへりに腰をかける。
体を丸めてふくらはぎをもんでいると、信洋の腕が伸びてきた。筋肉を脱力させて両足を彼に預ける。太い指がほどよい痛さで足の裏を刺激していく。
手のひらは徐々に太ももの方に上がっていき、焼き魚をひっくりかえすように小雪をうつぶせにすると、腰のあたりももみほぐしてくれた。
息を吐いて横になると、信洋が背中から腕を回してきた。小雪の薄茶色の髪の中に顔をうずめ、指先がわずかに胸のあたりにふれる。
小雪は花柄の壁紙の破れ目を見つめながら言った。
「先にお風呂に入ろうよ。私の髪、煙草臭くない?」
作品名:切れない鋏 1.小雪の章 積雪 作家名:わたなべめぐみ