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わたなべめぐみ
わたなべめぐみ
novelistID. 54639
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切れない鋏 1.小雪の章 積雪

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 冷や汗をおさめるために静止していると、暗い廊下の向こうから紗弥が顔をのぞかせた。

「ベースを抱えて朝帰りとは、学生は気楽なもんね」

 白のコットンシャツに濃紺のストレートパンツをはいた紗弥が、髪を結わえている。肩甲骨のあたりまで伸びた黒くまっすぐな髪が、ゆるやかにまとめられていく。
 生まれた時から薄茶色でくせのある髪を持つ小雪は、紗弥の髪を何度うらやんだかわからない。両親は連れ子同士の再婚なので、紗弥と小雪に血のつながりはない。

 聡明でさっぱりとした性格の紗弥に憧れ、彼女のようになりたいと願いながら成長してきた。自分は自分以外の何物でもなく、誰も紗弥になれはしないと気づいたのは、有川慎一郎と出会ってからだった。

「どうだったの、昨日のライブ」

 ウッドベースを抱えて二階に上がろうとすると、歯ブラシを片手に持った紗弥が尋ねてきた。

「すごかった。タケ兄が紗弥ちゃんと『モーニン』やりたいって言ってたよ」

 それとなく話をふってみると、歯磨き粉を泡立てた紗弥が苦々しい顔をして言った。

「いやよ。あいつわがままだし、こっちの要求を全然聞かないからイライラすんの」
「紗弥ちゃんを連れてこないと、次はないって」
「そりゃどうも残念様でした」

 他人事のようにそう言うと、また洗面所にひっこんだ。
 小雪はため息をついた。現役時代でさえ簡単にイエスと言わなかった紗弥を何故またライブに引っ張り出そうとしているのか、武の魂胆がわからなかった。
 自室にベースを押しこんで階下に戻ると、銀縁眼鏡をかけてグレーのロングコートをはおった紗弥が靴を履いているところだった。

「あんた昨日、結局どうやってベースを運んだの?」
「電車だけど」
「行きも帰りも?」
「そう。終電に間に合わなかったから、友達の家に泊めてもらって電車で帰ってきた」
「マナちゃんち?」
「違うけど」
「よくウッドベースなんか入れてくれる奇特な友達がいたもんね」

 紗弥は時々、核心をつきながら遠回しに言葉で攻めてくる。男の車に乗せてもらって、泊まったついでに寝てきたのではないか、と言いたいのだ。
 小雪が答えないでいると、紗弥はすっくと立ち上がって言った。

「今帰ったってお母さんにメールしときなさいよ。それからお父さんにも」
「ええーお父さんにも?」

 大手の製薬会社に勤務する父は、小雪の実の父親だ。
 小雪の生みの母が病死した後、薬剤師をしていた紗弥の母親と職場で知り合い、再婚に至ったそうだ。義母は今でも調剤薬局でのパート勤めをしている。

「あんたが外泊したときのお父さんのうろたえようと言ったら、ほんとひどいのよ。動画に残して見せたいくらいだわ。ちゃんと安心させてあげなさい」

 紗弥は母親のようにそう言って、家を出た。
 愛用の軽自動車に乗りこむのを見て、自分も早く運転免許を取らなくてはと思った。
 教習所に行かせてと気軽に言えるほど、家の経済状況がよくないことは承知している。
 紗弥もアルバイトをしてためたお金で教習所に通った。社会人になってから車も購入した。せめて運転免許だけでもと思うが、ウッドベースを買う費用も別に必要だった。
 ため息をつき、ダイニングテーブルの上に置かれていたパンを取って、自室に戻った。



 六畳の狭い洋室の中に、ベッドとライティングデスクが置かれている。家具で埋め尽くされた壁のほんのわずかなすき間に、ウッドベースを立てかける。

 元の持ち主、有川慎一郎は、もうこの世にはいない。
 大学進学後、中古のウッドベースを探していた小雪の元に、慎一郎のベースを使わないかと持ちかけてきたのは武だった。実家で眠ったままにしているより、現役のプレイヤーに弾いてもらった方がよっぽどいいと、両親を説得したらしい。
 躊躇うことなく喜べた初めの頃と違って、今はこの存在を少し重く感じている。
 このベースがあるから武は今でも個人的に会ってくれるのだろうと思う日もあれば、このベースなしに自分の存在意義はどこにあるのだろうと悩む日さえある。

 ベッドに身を投げ出して天井を見上げる。頭の中で昨夜の『ハウ・ハイ・ザ・ムーン』が流れている。エラ・フィッツジェラルドのヴォーカルで有名なこの曲を、コンボを組む条件にあげたのは武だった。どんなテンポでも自在に弾けるようになれ、と言われ、信洋と愛美と一緒になって、様々な音源を元に演奏を作りあげていった。

 半年前、ライブは実現しないまま武の音信がぷつりと途絶えた。愛美に様子を尋ねても実家には全く帰ってこないし連絡もつかなかったようだ。メールアドレスはいつの間にか変更され、かけてみても留守番電話サービスにつながった。

 ふらりと姿を見せたのが、つい二週間前のことだ。仕事帰りのスーツ姿で、『ブラックバード』に出演していた小雪たちを訪ねてきたのだ。
 あっけない再会に、怒りのエネルギーが頭の頂点を目指して駆け上った。
 真っ先に武にかけよって文句を言いだしたのは愛美だった。腕にしがみついたまま延々と実家の様子を並べ立て始めた。そのうちに部員たちが武を取り囲んでしまい、小雪は微塵も近づけなかった。

 最後に会ったときよりも頬が痩せたようだった。仕事が忙しかったのかもしれないと思うと、ぶつけてやりたかった熱は次第に引いていった。

 あの日は慎一郎の月命日だった。武は一体何を思ってコンボを組もうと言いだしたのだろうと、今なら冷静に考えられる。
 再来月には五周忌を迎える。恒例の追悼セッションは行うのだろうか。主催の武からはまだ何も聞いていない。毎年アレンジを変えて披露される『ハウ・ハイ・ザ・ムーン』に今年こそは出演できるだろうか。

 ――どこかで音楽が流れている。きっとあなたはそこにいる。なんて空高い月……

 小雪は英語の歌詞を口ずさんだ。そのうちに重い眠りがまぶたに訪れた。
 武のぬくもりを思い出しながら、闇に引きずりこまれていった。

                 ***

 大晦日の夜、待ち合わせ時刻の前に駅の改札口を通ると、信洋の大きな背中が見えた。
 小雪の姿に気づく様子がなかったので、肩をつついてみた。ブラウンのダウンジャケットが音を鳴らし、短く切りそろえられた頭が動いた。

「小雪が予定より早く着くなんて、めずらしいな」
「ノブがいつも早すぎなの」

 小雪が信洋の手を引いて歩き出すと、彼もそれに従って歩き出した。
 一緒に年越ししようと誘われたものの、あまり乗り気ではなかった。年末年始はアルバイトをしているファミリーレストランが立て込む時期で、六連勤も珍しくない。
 できれば家で寝ていたい。しかしこれ以上誘いを断れない。

 付き合ってまだ半年も経っていないのに、信洋に対するときめきは早くも枯渇していた。
 一緒にいて気持ちは安らぐけれど、武と対面しているときのように、胸を締め上げるような痛みを感じたことはない。
 まだ日付が変わるまで時間がある。石の塊のようになった足を早く休ませたくて、近くにあった喫茶店にかけこんだ。

 夜十一時を過ぎているのに、店内は年明けを待つ客でごった返していた。二十分近く待った末にようやく待ち合い席がひとつ空いた。