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わたなべめぐみ
わたなべめぐみ
novelistID. 54639
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切れない鋏 1.小雪の章 積雪

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 そう言って綿谷の手からすばやく茶封筒を抜き取ると、ベースにソフトケースをかぶせていた小雪に突きつけて言った。

「今日の交通費」

 小雪は手を止めて武を見た。首筋のあたりに演奏後の名残が浮き立っている。
 帰りは武の車でベースを運んでもらえるかもしれない、と淡い期待を抱いていたが、目の前にさし出されたギャラが「電車に乗って帰れ」と語っているようだった。
 受け取るのをためらっていても、武が手を引っ込める気配は全くない。
 小雪はソフトケースをしっかり締め上げたあと、渋々受け取った。

 綿谷と雑談をし始めた武を横目に、紺色のPコートをはおる。ポケットの中に冷えたカイロが入っている。ごみ箱に捨てようとして、またおさめた。未練がましいことに気づいていても、武が握っていたものだと思うと手放せない。
 客席で携帯電話をいじりながら待っていた愛美に声をかけてベースを担ぎ上げると、武はミリタリーコートをすばやく羽織って言った。

「待ってろ。車、まわしてくるから」

 小雪が返事をするまもなく、武は扉を押しあけた。熱気が充満する店内に、夜の冷たい風が吹きこんでくる。
 愛美があわてて「私も送ってってよー」とかけよると、武はふりむかずに「はいはい」と気のない返事をして店の外に出た。
 気合を入れて持ち上げたウッドベースが宙に浮いたままだ。

 サロンをつけて店内の後片付けを始めた綿谷に「よかったね、小雪ちゃん」と声をかけられてやっと我に返った。
 ウッドベースを再び床に寝かせると、綿谷の動きに合わせて食器を下げるのを手伝った。愛美もトートバックを置いて彼の指示を仰ぐ。
 うつむいてテーブルを拭きながら、口の端が持ち上がりそうになるのを必死でこらえる。自分が今どんな表情をしているのか、誰にも見られたくなくて髪で顔をかくす。
 心臓がずくずくと痛む。かきけそうとテーブルの汚れをこする。
 期待はしない。ウッドベースを積んで帰る。それだけのことだ。



 有川家の前で愛美を下ろし、小雪の自宅に向かって車が走り出したのは、夜十一時頃だった。後部座席につまれたウッドベースの横に身を縮めて座っていた小雪は、運転席から伸びる武の手招きに気づき、助手席に乗りこんだ。

 雪はやんだものの、溶けかけた雪の塊が夜の街を覆っている。武は普段よりも慎重にハンドルを切っている。車内にはトランペットとテナーサックスのソロが流れている。
 手の中で携帯電話が振動する。緑色のランプが光っている。ちらりと画面を見てから返信せずにまたふせた。

「また光ってるけど。ノブ?」

 赤信号でブレーキを踏んだ武が携帯電話に視線を送って言った。
 そう、とこたえて画面を手のひらで覆う。車がゆっくりと動き出す。

「なんて?」
「次こそは武さんと一緒にやりたいって言ってる」

 対向車線を走る車のヘッドライトが武の横顔を照らし出す。アート・ブレイキー・ジャズ・メッセンジャーズの『モーニン』が流れ始める。

「これやりたいから、紗弥つれてきて」
「そんなの無理だよ。紗弥ちゃん、もうコンボはやらないって言ってたもん」

 突然姉の名が出てきて、小雪は戸惑った。薬剤師として調剤薬局に勤める紗弥(さや)は、武と同じ大学のビッグバンド出身だ。今では結婚式や同窓会の場でテナーサックスを吹く程度で、ギャラの出るライブに立つことはほとんどない。
 武とは対極的に目立つことを好まない紗弥が、大学三回生のときに武が集めたコンボのフロントとして数度ライブに出演したことは、紗弥自身も「ただのきまぐれだった」と言っている。

「じゃあノブに説得させればいいだろ。紗弥を引っぱってこないなら、次はないから」
「ノブが紗弥ちゃんを口説けるわけないの、わかって言ってるでしょ」

 愚痴るようにつぶやいて、携帯電話の画面を指で叩く。メッセージを送信すると、すぐさま信洋から返事があった。ベッドの中で退屈しているのが伝わってきて、げんなりする。
 ランプが緑色に光るのを見ながら、ショルダーバッグの中に携帯電話を放り込んだ。

「返信しなくていいのか」
「だって返事したらまた送ってくるんだもん」

 武は肩を動かして大げさに息を吐き出した。

「そんな面倒くさいこと、よく続けられるな」
「仕方ないでしょ。無視してたら、昨日はどうしてたのかとか聞いてくるんだから」

 武の視線がちらりと小雪にむけられる。

「今はいいのか」
「寝落ちしたってことにしとく」

 助手席のシートに深くもたれて息をついた。
 窓の外を見る。見慣れたチェーン店の看板がいくつも流れていく。外灯や店舗の光、前後を走る車のフロントライトが無機質なコンクリート道を淡く照らし出す。

「うち、よってく?」

 分岐点の手前で、正面を見たまま武は言った。
 心臓が強く打ち出そうとするのを感じながら、小雪はうなずいた。

「おなかすいたな」
「そういや晩飯食ってなかったな。なんか買ってくか」

 武は大きくハンドルを切って分岐点の手前にあるコンビニの駐車場に車をすべりこませた。小雪と二人のときに目の前にあるファミレスや深夜営業のカフェに入ることはない。
 パスタやサラダを買い込んで車に戻ると、武はミリタリーコートのポケットから携帯電話を取り出した。さっと画面を見ただけで、通話も返信もしない。
 エンジンをかけてハンドルを握ったが、着信音が鳴りだした。
 ふっと息を吐いてハンドルから片手をはなすと、武は応答した。

「うん、今帰り。ごめん、今、運転中だから。じゃあ」

 途切れながらそう言って、一分たたずに通話を終了した。エンジン音で相手の声は聞こえなかったが、電話のむこうにいる人物は、武が今ライブ帰りだということを知っているように思えた。
 武と目があって、食い入るように彼の様子を伺っていたことに気づく。
 意識をそらそうとフロントガラスの向こうに視線を送ったが、耳の奥で鳴る鼓動はなかなか静まらなかった。

 車はゆっくりと動き出す。ここから十五分も走れば、武が一人暮らしをしているアパートの一室に着くだろう。彼の部屋に入るのは半年ぶりのことだ。
 期待は無駄に終わるはずだと、頭の中で念仏のように唱えた。並んでテレビを見ながら遅い夕食を取り、それからまた自宅まで送ってもらう。
その程度のことなら信洋との関係がぶれたりしないはずだ。

 ショルダーバッグの中を探って携帯電話を握りしめる。また振動している。けれど武のように電源を切る勇気はない。万が一、ひとつのベッドの中で寝ることになっても、緑のランプは光り続けているのだろう。
 それでも同じ明日を迎えることができるのだろうかと、気だるいトランペットの音色を聞きながら小雪は考えた。

                 ***

 翌朝、武の車で自宅近くまで送ってもらった小雪は、音をたてないように玄関の鍵を開けた。築四十年の木造住宅は戸口が狭く、ウッドベースを運び込むのにいつも苦労する。
 抜き足差し足で土間に入ったものの、高さが二十センチもある上り框にエンドピンをひっかけてしまい、その拍子に声を上げてしまった。