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わたなべめぐみ
わたなべめぐみ
novelistID. 54639
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切れない鋏 1.小雪の章 積雪

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 板張りの床に置かれたスティックケースを探りながら、綿谷が頭を上げる。

「どっちかっていうと、僕の方が先だね」
「年なんて関係ないっすよ」

 武はくちびるを一舐めすると、マウスピースに口をつけて息を吹きこんだ。
 綿谷はブラシでスネアドラムをなでてから薄く笑った。
 白いグランドピアノの前で待機していた愛美が身を乗り出して言う。

「私、ブラックバードなんて用意してないよ。コード譜、見せて」
「ピアノはいらない。ベースも」

 武はひとり言のようにそう言うと、素早く右手の指を動かしてピストンを上下させた。
 ふくれっ面をした愛美が、小雪の隣に座る。気まぐれな兄にふりまわされる妹の気持ちが、肩越しに伝わってくる。この日のために万全の準備をしてきたのに、用意していない曲を上げられて、その上いらないと言われれば誰でも腹が立つ。
 しかし同時に、ドラムとトランペットのみにアレンジされたあの曲が聞けると思うと、胸の高鳴りは抑えられない。

 この店が開店した五年前――あの時は隣に慎一郎(しんいちろう)が座っていた。小雪が弾いているオリエンテのウッドベースも、まだ彼が所有していた頃だ。
 綿谷がバスドラムを二回踏んでブラシを握る。小雪はあわててトートバックを探ってジャズのスタンダード曲集を取り出す。

 ファーストテンポのカウントが始まると、武は顔を上げてトランペットを構えた。ライオンのように逆立てた黒髪が揺れる。頬の肉が引きしまる。
 テーマの一拍目から『バイ・バイ・ブラックバード』が始まる。


 雪のせいか、本番になっても客足は鈍かった。

 武の会社の同僚だという女性陣がいつものようにベース近くの席を陣取っている。顔ぶれはその時々によって違うが、栗色の髪をゆるく巻いた女性は高い確率で参加している。武は彼女たちとほんの少し会話するだけだが、時おり親密な空気が漂ってくるようだった。
 綿谷が刻むハイハットに乗せてベースラインを流しながら、ちらと彼女たちを見る。
 栗色の髪の女性が熱心に武を見上げている。
 武はどこ吹く風で『ハウ・ハイ・ザ・ムーン』のソロを吹いている。
 自分も観客だった時は、あの女性のように溶けるような表情をして武のトランペットを聞いていたのだろうかと考える。

 十代前半からジャズを始めた武、慎一郎、愛美の有川三兄弟とは違い、小雪が念願のベースを手にしたのは大学に入ってからだ。それからの三年間、一時期はプロプレイヤーになろうとしていた武とコンボを組むために、ベースの練習を重ねてきた。
 今夜のステージに参加するはずだった堤信洋(つつみのぶひろ)もまた、武の演奏に脳髄を溶かされた内のひとりだ。同じ大学のビッグバンドで意気投合した信洋は、小雪と愛美と共にリズムセクションを組み、武が望む楽曲を理想の形に仕上げるために、毎日のように大学の地下練習室にこもって練習を積んだ。

 それなのに肝心の本番前日になってインフルエンザにかかるなんて、信洋もつくづく運がない。予防接種をしたにもかかわらず、別の型に感染するあたり彼らしいと思ってしまう。「雨が降ってほしいときはノブを連れてこい」と部員に言われるほど、野外ステージやストリートライブのたびに雨を降らせてしまう男だ。

 高熱に浮かされているくせに、雪まで降らせるなんてエネルギーの使いどころを間違えている、と考えていると、綿谷のドラムの調子が強くなった。裏拍のタイミングが微妙にずれていたらしい。小雪は脳に酸素を送って意識を集中させる。ハイハットとスネアドラムの音をよく聴いて寄り添うように合わせていく。
 綿谷の口の端が少し持ち上がる。信洋が叩いているときにはない緊張感が、店内の空気を張りつめたものに変えていく。

 天井を突き破ってしまいそうなトランペットのハイノートが、小雪の心臓をひねりあげる。体の芯を揺さぶる音色に我を失わないように唇を結ぶ。
 愛美が弾くピアノの音色が低音からじりじりと上がり、トランペットの複雑なフレーズに絡みついてく。他人同士だったら嫉妬してしまいそうなほど熱い視線を交わしながら、二人のソロは四小節ずつ繰り返され、エンドロールへと向かっていく。
 綿谷がクラッシュシンバルとライドシンバルを交互に叩きながら演奏をあおっていく。
 小雪はランニングベースが走りすぎないように脳に制御をかける。
 愛美の短くて可愛らしい指が鍵盤をなでながら落下していく。
 武は首の両側にある頸動脈を浮き立たせて頂点までのぼりつめていく。

 高々と振りかざされた金メッキのトランペットが空を切ると、全員がタイミングをとって最後の音を鳴らした。

 客席から拍手が起こり、小雪は肩の力を抜いた。
 観客といっても武の同僚以外には、大学の仲間や愛美が通うレッスンスクールの知り合いがいる程度だ。
 客席に向かって、武は手を上げた。部員たちが指笛を鳴らす。
 武はツバ抜きを空け、アンコールを待たずにトランペットを構えた。

 ブラシを握った綿谷のカウントで『バイ・バイ・ブラックバード』が始まる。
 小雪はベースを支えて立ったまま、武の横顔を見つめる。

 初めて出会ったとき、小雪は高校一年だった。夏休みに入る直前、愛美に連れられて、武が所属するビッグバンドのライブを聞きに行ったのだ。
アマチュアの大学生バンドの中で、武はとびきり異彩を放っていた。金色に染めた髪をこれでもかと逆立て、金メッキのトランペットを猛々しく鳴らす姿は荒野に立つライオンのようだった。
 初めてジャズの生演奏に触れた小雪は汗ばむ手を握りしめて、ソロマイクの前に立つ武の姿を見ていた。
 バッキングのフレーズが宙を彷徨い、人々の意識の矢が全て彼に向かっていた。
 世界は凝縮されて彼の中に吸収されていくようだった。

 今夜のように閑古鳥が鳴いていても、リズムがドラムだけであっても、武が放出するエネルギーはあの頃から衰えを見せない。
 縫い針の穴に細い糸を通すように、正確なピッチを狙って息が吹きこまれる。寄せられた頬の筋肉が硬直する。闇夜の街を獣が疾走していくようなフレーズが繰り返される。
 どのタイミングで息をついでいるのかわからないほど、トランペットの音色は途切れることなく紡がれていく。
 胸が苦しくなり、自分まで呼吸を忘れていたことに気づく。
 最後の一音を吹ききると、武のとがった顎の下に汗がしたたり落ちた。
 観客たちは両腕を上げて手を叩く。武は手の甲で上唇をぬぐってそれに応える。
 どれだけ追いかけてもとらえることのできない広い背中がゆっくりと隆起している。
 小雪もウッドベースを抱えたまま、拍手を送った。演奏直後にしか見ることのできない力の抜けた微笑みが武の頬に浮かんだ。


 帰り支度をしていると、茶封筒を持った綿谷が武の肩を叩いて言った。

「はい、お疲れ様」

 ハードケースを空けてトランペットをしまおうとしていた武は、わずかに顔を上げた。

「いらない。ぜんっぜん客入ってないし」
「もらってくれないと、困るんだけどなあ」

 綿谷がやれやれと言わんばかりの顔で肩を落とす。封筒が行き場を失っている。
 武は指先で顎をなでながら、黙っている。

「じゃあ」