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わたなべめぐみ
わたなべめぐみ
novelistID. 54639
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切れない鋏 1.小雪の章 積雪

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1.小雪の章 積雪



 降りしきる雪の中を、小雪(こゆき)はウッドベースを抱えてひた走る。

 通勤ラッシュの時間帯は避けられたものの、年末の駅前は行き交う人々でごった返している。木々にぶら下げられたイルミネーションが淡い光を灯し、誰に見られることもないまま夕暮れ時の空を彩っている。

 コンクリートの歩道に溶けた雪が残っている。足を取られながら人にぶつかり、謝ってはベースの死角を通り過ぎる人に当たられる。全長180センチもある巨大なウッドベースを抱えていると、背の低い小雪はどうしても視界が狭くなる。冷ややか視線と物珍しそうな眼差しを向けられることはあっても、誰かが手を貸してくれることはない。

 傘もさせず、頭や肩に容赦なく雪は降り積もる。
 破裂しそうな心臓に酸素を送ろうと息を吸いこむが、喉の奥に冷気が張りついてうまく呼吸ができない。毛糸の手袋は雪に濡れて重くなっている。
 鼻と耳はちぎれそうなほどに冷え、指先の感覚がなくなってきている。

 シャッターの下りた店の軒下に入ると、ベースを下ろして息を吐いた。
 皮膚は冷えて張りつめているのに、Pコートを着た服の下から汗が噴き出してくる。
 役に立たなくなった手袋をはずして無造作にポケットにつっこむ。反対のポケットから携帯電話を取り出してみるが、着信はない。武(たけし)に送ったメッセージも返信はない。
 そもそも彼からリアルタイムで返信があったことなど、一度もない。いつも忘れた頃にぽつっと短い言葉を送ってくる。

 もう一度かけてみる。またしても留守番電話サービスにつながる。
 ため息をついて通話終了ボタンを押すと、携帯が軽やかに鳴った。かぶりつくように画面を見たが、表示されたのは信洋(のぶひろ)のメッセージだった。

 ――今日はほんとゴメン。もう着いた?
 
 ぺこぺこと頭を下げているパンダのイラストに苛立ちを感じ、「まだ」とだけ打って、再び携帯電話をポケットにつっこんだ。

 ソフトケースについた雪を払い落とし、ベースを担ぎ上げる。
 勢いを増した雪が視界を遮る。汗をかいたせいか、ますます体が冷えてくる。ベースもろともひっくり返ることだけは避けたくて、底のすり減ったブーツを踏みしめて歩いていく。急がなければもうじきリハーサルが始まる。
 ライブハウスまでの歩きなれた道のりが、二時間にも三時間にも感じられた。


 雑居ビルの地下一階にあるジャズ喫茶『ブラックバード』にたどり着くころには、腕にほとんど力が入らなくなっていた。
 滑らないように用心しながらタイル張りの階段を下りていく。

 木製のドアのむこうから、トランペットの音色が聞こえてきた。
 ゆったりとしたテンポで『アイ・リメンバー・クリフォード・ブラウン』を吹いているのは、武に違いなかった。
 怒りではち切れそうになっていた胸の中が、心地よい音色に溶かされていく。
 雪の中、徒歩でベースを運ぶはめになってしまった恨みつらみまで消えそうになって、頭をふった。体に気合を入れ直してドアを押し開ける。

「タケ兄、どうして携帯にでないの!」
 
 カウンター席に腰をかけて金メッキのトランペットを吹いていた有川武がふりむいた。

 「ユキコ、すっげえ頭」

 黒のブイネックセーターを着た武が、白熱灯のオレンジ色の光を浴びて笑っている。
 漏れ出してきた温かい空気と武の存在に、思わず心がゆるみそうになる。
 小雪は全身についた雪を払い落とすと、ベースを押しこむようにして店内に入った。武がまたトランペットを構えようとしたので、小雪は声を荒げた。

「携帯、見てないの? 今日ベースを乗せてってくれるって言ってたでしょ」
「彼氏に乗っけてもらえよ」
「ノブはインフルエンザで病欠だって、昨日連絡したじゃない」
「そうだっけ。じゃあタクシーでも拾えば」
「この雪で長蛇の列!」

 武相手にこれ以上の押し問答は無駄だとわかっている。けれど置き去りにされた悔しさをどこへぶつければいいかわからない。言えば言うほど情けなくなってくる。
 ベースを持ち上げようにも、腕の筋肉が伸びきってしまって力が入らない。
 そこへキャメル色のコートを着た有川愛美(ありかわまなみ)が入店した。

「小雪、何その格好! もしかして駅から歩いてきたの?」
「マナ、聞いて。タケ兄ひどいんだよ」

 ベースを抱えたまま愛美につめよると、背中をはたいて雪を落してくれた。

「とりあえず中に入ろうよ」

 バンドのピアニストを務める愛美はトートバックひとつという身軽さだ。
 冷え切った体を駆使して二人がかりでステージ近くまでウッドベースを運び入れると、愛美は武を睨みあげて言った。

「お兄ちゃん、また電源切ってたんでしょ」

 そう言われてやっと武が重い腰を上げる。客席からファーのついたミリタリーコートを拾いあげてポケットを探った。

「そういや、昨日の夕方から切ったままだったかな」

 すっとぼけた調子でそう言われ、小雪は脱力した。武は女性と会っているとき携帯電話の電源を切る。小雪といるときは鳴っても応答しない。知っていても無駄な想像力が働いて、武がどんな女性を抱いていたのか次々とぼやけた映像が浮かんでくる。

 濡れたPコートを脱いで客席のいすにかける。ベースをソフトケースから取り出して、痛んでいる部分がないか点検する。水滴はケースの中まではしみこんでいなかったらしく、こげ茶色のつややかなボディにも異常はなかった。

 ほっと一息ついてステージの隅にベースを寝かせる。じきにリハーサルが始まる。それまでにかじかんで真っ赤になってしまった指を温めようと、必死になって息を吐いた。
 頬に熱を感じて思わず体をひくと、真横に立っていた武が小雪の長い髪をなでた。

「雪、まだついてる」

 長身の武が見下ろしながらそう言って、小雪に使い捨てカイロを握らせた。

「それ握ってろ。先に綿谷さんとやっとくから」

 トランペットのツバ抜きを空けて菅の中にたまった水滴を落すと、カウンターの奥に続くキッチンにむかって声を上げた。
 緑のスクエア型の眼鏡をかけた綿谷(わたや)が、黒いサロンで手をふきながらやってきた。

「はいはい、お呼びですか」

 ここで店長を務める綿谷は今年二十八になる。二つ年下の武とは、中学時代からの先輩後輩で、何度も同じビッグバンドに所属しているらしい。
 信洋の代打を頼んだときは、フロントが武だと聞いて快く引き受けてくれた。
 綿谷はサロンをたたんでケヤキの一枚板のテーブルに置いた。

「さあ、何からやるのかな?」

 『ブラックバード』のドラマー綿谷といえば、小雪が通う大学だけでなく、近隣の学生にも知れ渡った名前だ。接客やキッチンでの作業の合間に、ステージに立つこともある。
 武がフロントを務めるコンボを組んでいた時期もあったようで、後輩の多くが今でもこの店の世話になっている。アルバイトをするスタッフにも同じ大学の出身が多い。
 武はトランペットを掲げて言った。

「もちろん、爆速ブラックバード」
「封印したんじゃなかったの?」
「今やっとかないと、どっちかがのたれ死んだら後悔するでしょ」