幻燈館殺人事件 前篇
「この着物も外套も僕の師事している教授のお古なんです。僕は決して裕福な生まれではありませんので、教授に目をかけて頂けた事は本当に運が良かったのです。教授は人格的にも優れていましてね、と言っても少しお小言は多いんですが――ああ、いやいや本当に素晴らしい方なんですよ。僕もいつかは教授のようになりたいと、そう考えていまして。ですから教授のお古は僕にとって、非常にありがたーい物でありまして」
花明がそこまで話すと、くすくすとした笑い声がその耳に届いた。
「す、すみません! 私ったら、お話の途中で笑うだなんて失礼にも程が」
「はっはっは! いえいえ、笑って頂けて何よりです。だって――お互い緊張するじゃありませんか」
そうぼそりと伝えた花明の優しい気遣いに、柏原ははっと息を飲む思いがした。
「よっ……と。どうでしょうか?」
着替え終え衝立からひょっこりと姿を現した花明は、先程までの青年とは見違えるようだった。古めかしい着物から背広に着替えた彼は、持前の顔立ちの端正さも相まって凛々しい印象を柏原に与えた。
「素晴らしいです」
「どこか可笑しくはないでしょうか?」
そう問われ、柏原は花明の近くへと進むと、手を伸ばし襟元を少し直した。
「これで完璧で御座います」
「有難うございます」
お互いの顔を見合せると、どちらともなく微笑みあう。
「それでは濡れたお着物は、こちらで洗濯させて頂きますので」
「いや申し訳ないです」
すまなそうに頭を掻いた花明を、少し打ち解けた表情で柏原は見つめ返した。
「大切なお着物ですもの。心を込めて綺麗にさせて頂きます」
「柏原さんのような方にそんな風に言って頂けたら、着物も教授も喜びます」
「まあ、お上手なんですね」
「いや、そんな……本当にそう思ったのです」
赤面するその姿は嘘を言っているようには見えない。実直さの伺える優しい青年の受け答えに、仕える身分である柏原からも思わず肩の力が抜けていく。
「ふふっ、本当に素晴らしい教授なんですね。私のような学の無い人間には分からない事だとは思いますけれど、どんな事を学んでいらっしゃるのですか?」
「民俗学です。僕の師は澤元嘉平教授といって、この道ではとても有名な方なんですよ。少し変わった研究ばかりなさるんですけどね」
「そうなんですか。でも学べるって素敵な事です。羨ましい……」
「柏原さんも学べますよ! 学ぶ事に早いも遅いもないと、教授はいつもそう言っています」
「ご立派なお考えですのね――って私ったらまた長話を!」
「ああ、僕もつい……」
互いに顔を見合わせたと同時に、扉を叩く音が室内に響いた。
「花明さま、お支度は済まれましたか?」
柏原の高く澄んだ声とは別の、女性にしては低く――だがよく通る声で蝶子が扉の向こうから声を掛けた。
花明が急ぎ扉を開けると、蝶子はその声の印象のままに、凛とそこに立っていた。
「すみません、お待たせしました」
「いいえ。洋装もよくお似合いですわ。さ、お食事の用意が出来ています。ご案内致します」
そんな簡単な会話を済ませると、蝶子はくるりと背を向け花明を促した。彼女は室内の使用人に視線を馳せる事もなく、規則正しい歩幅で歩き始めた。
「それでは柏原さん」
「はい、私も洗濯が済み次第、食堂の方へ参りますので」
柏原に挨拶を済ませると、花明は慌てて蝶子の後を追った。
作品名:幻燈館殺人事件 前篇 作家名:有馬音文