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幻燈館殺人事件  前篇

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 宿の女将に見送られ、村の中心部へとやってきた花明ではあったが、何かしらの当てがあるはずもなかった。
 村人の誰かに話を聞いてみようとしても、村人は余所者である花明を遠巻きに見ているだけで誰も近づかせてくれはしない。
「参ったな」
 澤元教授はいかにも好々爺といった人物なので、うまくここの村人達にも取り入る事が出来たのかもしれないが、まだ二十歳になったばかりの花明は、そのような社交術は会得していなかった。村人達の好奇の視線から逃れるように、足が自然に村の中心部から離れていくのを止める事など出来るはずもなく、豊かな自然に目をやりながらただただ歩みを進めて行く。

 やがて目の前に小さな湖畔が現れた。大きな楠に縁取られるかのような水面の上で、静かに揺蕩う枯葉に暫し目を奪われていると、びゅうと寒風が吹きすさんだ。身ぶるいをしながら尚も佇む花明の眼前を、ふいに白い物体が掠めた。
「ああっ!」
 と同時に子供の甲高い声が静謐な湖に響き渡った。驚いた花明が声のした方へと顔を向けると、そこには一人の愛らしい少女と、その少女に付き添う美しい女性の姿があった。
「蝶子、千代のリボンが湖に落ちてしまったわ」
 雪のように白い肌の少女は白い外套に身を包み、対照的な黒髪を胸の辺りで綺麗に切り揃えている。少女らしい丸顔を寒さからかやや紅潮させながらも、弾むように四肢を伸ばすその姿はまるで雪の精のようであった。白く小さな手を伸ばすと、少し大人びた美しい切れ長の瞳を見開きながら湖を見つめている少女の、その長い髪が少し乱れている事から、先程眼前を舞ったのは少女の付けていたリボンであった事を花明は理解した。困り顔で少女の傍らに立つ女性はと言うと、目も覚めるような青いビジティングドレスを身に纏い、髪は流行の耳隠し、少女と同じく切れ長の目が印象的な整った顔立ちをしている。このような辺境の地にいながらも洗練された容姿のその女性に、花明は思わず目を奪われた。
「よろしければ僕が取りに行きましょう」
 無意識の内に花明はそう声を掛けていた。
 突然の申し出に二人が戸惑うのを確認する間もなく、花明はリボンへと意識を向けた。岸近く、足を少しばかり水に浸せば何とか手が届くであろう範囲で、リボンは沈むことなくゆらゆらと漂っていた。
「いえ、そんな! お待ちくださいまし」
 女性の制止の声も聞かず、花明は躊躇うことなく水の中へと足を浸ける。革靴の中に水が入り何とも心地が悪い。着物の裾も濡れてしまったが、何これしき大したことはないと、花明は意気込むかのように「よっ」と声を発すると、身を伸ばし見事リボンをその手におさめた。
「どうぞ」
 水が入ってしまい歩く度にずくずくと何とも不憫な音を出す靴でもって花明は少女に近づくと、そっとリボンを差し出した。
「有難う。これは千代のお気に入りなの」
 少女は大人びた様子でそう答えると、花明に向ってにっこりと微笑んだ。
「まぁ! なんて事! 着物も靴も水浸しではありませんか」
 女性の方は少女とは正反対に花明のとった行動に驚きと申し訳なさを隠せない様子である。
「いえ、大した事はありません」
 花明はそう嘯いて見せた。
「失礼ですが、この村の方ではないご様子」
 訝しむかのような女性の視線に対し「ああ、これは申し遅れました」と一礼をすると、花明は簡単な自己紹介をした。
「僕は帝国大学で民俗学を専攻している花明栄助という者です。この村には教授の研究の為に来たのです」
「ではご教授とご一緒に?」
「の予定だったのですが、生憎教授は体調を崩しまして。こちらには僕一人で伺ったというわけです」
「そうでしたか……。でしたらお宿は?」
「村の川辺さんのお宅に」
「ああ、あちらの……」
 女性は少しだけ逡巡するかのような様子を見せたが、すぐに花明の方へと向き直ると、洗練された仕草とともに口を開いた。
「では、今晩はどうぞ私共の屋敷へといらして下さい。着替えの用意もさせて頂きますので」
 この申し出には花明の方が驚いた。何もそこまでして貰う程の事ではないと思ったからだ。
「や、そのような事をして頂いては、こちらが恐縮してしまいます」
「いいえ、このまま花明さまをお帰ししたとあっては九条の名折れ」
「九条?」
「ああ、私ったら……自分の素姓も明かさずに不躾な申し出でしたわ。花明さまを一刻も早くその御姿から解放しなければと、気持ちが急いてしまいました」
 言うなり恭しく一礼すると、女性は花明をすっと見つめた。
「私は奇咲蝶子と申します。こちらは私の姉の娘であり、そして幻燈館当主九条大河さまの孫娘であらせられる九条千代さまです」
 蝶子に紹介された千代が淑女顔負けのお辞儀を花明へと向けた。
「え? 幻燈館の? えぇ!?」
 予想だにしなかった展開に花明は驚きの声をあげた。しかしこの村にいても何の収穫も得られないかもしれないと感じていた花明にとって、これは願ってもいない申し出だった。これならば何とか教授の役に立つ情報も得られるかもしれないと、一も二もなく花明は喜びの返事をあげたのだった。その様相を確認すると、蝶子は花明を導くように身を翻し「では早速――」と先へと促した。しかしその背中に花明は躊躇い気味に声を掛けた。
「いえ、少しお待ちいただけますか? 宿の女将に伝えてこなければなりませんので。僕が戻らなければ心配するでしょうし」
「それならば後で使いの者を遣りましょう」
「いやいや荷物もありますし。とはいってもこの寒空の下でお待たせするのも申し訳がありませんので、後から直接幻燈館まで伺わせて頂いてもよろしいでしょうか?」
「それは構いませんが……しかしお客様にそのような」
「いえいえ、その方がこちらも都合が良いのです。では、どうぞよろしくお願いいたします」
 そう言うなり蝶子の返事も聞かず、花明は宿へと駆け出していた。濡れた着物は既に冷たくなってはいたが、そんな事も気にならない程に花明の胸は躍っていたのだった。