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幻燈館殺人事件  前篇

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「いや全く先生には参りました」
 小さな民家の前で頭をかく青年の顔は、本当に困っているようだった。和服にインバネスを合わせ、履物には下駄ではなく革靴を合わせたその青年は、端正な顔立ちと訛りのない言葉遣いから都会の匂いがした。
「ギックリ腰で来れなくなったってぇ、先生は大丈夫なんですかい?」
 そう青年に問うたのは、この辺境の村での暮らしが皺の一つ一つに深く刻まれた腰の曲がった老婆だった。
「はい、しばらく安静にしていれば大丈夫とのことです」
「そりゃあ良かった。あ、先生がいなくとも花明さんの面倒は私がきっちり見させて頂きますけぇ」
「すみません。有難うございます」
 花明さんと呼ばれたその青年は礼を言うと、長身を折り曲げ老婆に一礼をする。礼儀正しいその様に老婆は思わず顔を綻ばせた。
「この村ではちゃんとした宿なんかないですからねぇ。うちだって農家の傍らやっているようなもんで。こんな辺鄙な村に人が来る事なんてそうそうありはしませんからなぁ。もっとも先生は研究の為とかで何度か来て下さってはいますがねぇ」
「これからは僕もお世話になるかもしれません」
「へぇ、そりゃ有難いこってす」
 そう言うと今度は老婆が一礼をし、花明の持ってきた鞄を手に取ろうとした。
「お部屋まで運ばせて頂きます」
「いえ、大丈夫ですよ」
 宿の女将といえども、自分の母よりも遥かに年を召しているであろう老婆に荷物を持たせる事など出来るような男ではない。部屋は奥だと教えられると、靴を脱ぎその部屋へと向かって行く。
 そんな花明の様子に気を使ったような視線を向けてきた老婆に対し「何か用があったら声をかけさせて頂きますので」とだけ言うと、花明は今日より数日の間、居とする場所となった間へと入っていった。

「ふー」
 襖を閉めると知らず息を吐いた。帝都からここまで、かなりの時間がかかった。目的の地に辿りつけた事で、とりあえずは心が落ち着いたのだろう。
 鞄を置き、インバネスを文机の上に無造作に放ると窓から外の様子を伺う。今にも雪が降りそうな寒空の下で、梔子の実が殺風景な景色に温かな色を添えている。藁葺の屋根すら未だ見受けられる片田舎は、人の気配すら感じられない程にしんとした空気に満たされていた。
 実に静かであった。静寂の中で気持ちを整えていると、本来の自分の目的すら見失ってしまいそうな錯覚に陥ったので、花明は慌てて鞄の中から教授に渡された資料を出した。

『九利壬津村に於ける衝動性破壊行動、及び、衝動性殺人行動について』

 一枚目にはそう記されてあった。
 花明は帝国大学の民俗学の学生である。老婆が先生と言っていたのは、花明の教授である澤元嘉平教授、その人の事だ。澤元教授はこの村に伝わる伝承に非常に強い興味を持ち、もう何度もこの地へと足を運んでいるという。そしてその結果「ただの伝承ではない」と判断し、今回生徒である花明と共に本格的に調べてみる予定だったのだ。ギックリ腰という突然の痛みに見舞われさえしなければ、到着するなり早速調査に取り掛かっていたであろう。
 花明はというと、教授の事は心から尊敬しているし、その教授が伝承ではないと判断されたのだから実際に調べてみたいという気持ちは勿論あったのだが、何せ右も左も分からない初めての地で、どこから調べればいいのか思案にあぐねているというのが現状である。「ふむ」と彼が腕を組み物思いに耽り始めたその時「失礼します」と老婆が襖越しに声をかけてきた。
「どうぞ」
腕を解いた花明が軽く返事をすると、静かに襖が開いていく。
「お茶をお持ちしました」
 襖が開かれると畳の上に盆を置き、その上に乗ったお茶をすすと老婆が進めてきたので、まずは目の前のこの女将に話を聞いてみるのがよかろうと、花明は口を開いた。
「有難うございます。ところで女将さんは先生の研究についてはご存じでなんですよね?」
「へぇ、なんでもこの地にまつわる伝承を調べておいでとかで」
「はい、衝動性破壊行動といったような突発的な発作について調べているのです」
 花明がそう言うと老婆はすと目を細めた。
「それを調べた所でなんも有りはしませんですよ」
「しかし、澤元教授――ああ、‘先生’の事ですが、先生は何度もこの地に足を運んでおられて……」
「へぇ、大事なお客様です。なんせこんな寂しい村ですからなぁ」
 老婆はそう言うと畳に視線を落とした。その様子からこれ以上この伝承について話をする事は無いであろう事は伺えたが、花明はやはり引き下がるわけにもいかなかった。
「先生が言うには、この村には破壊や殺人の衝動が芽生えてしまう人間が現れるとか。それが突発的なものなのか、何らかの法則があるのかは分かりません。しかしそういう者が現われた時は‘贄’を与えていたと」
「花明さん」
 花明の話を途中で遮った老婆の声は静かな部屋に凛と響いた。
「そんなもんがもし現れたとして、貧乏人はどうしやいいんです? 金持ちの――たとえば九条家のような方々なら、金に困っている村人の家族の誰かを間引きゃいいかもしれませんがね。貧乏人の中から出たらどうするってんです? 家族で殺し合いでもするんですかい? そりゃあ、あんまりじゃないですか。ねぇ……。ねぇ……、だから有りはしないんです」
 有無を言わせない様子の老婆の言葉に、花明は口を噤んだ。この老婆の態度は何かを隠しているように見える。やはり敬愛する澤元教授の考えは正しいのではないか、そんな事をちらりと思いながらも、花明は老婆に話を合わせておく事にした。これ以上は何も引き出せないだろうし、引き出したとしてもそれは老婆にとって面白い事ではないと感じたからだ。
「そうですか。やはり伝承とはそういう不確かなものなのかもしれませんね」
 花明が話を合わせると老婆は安堵したように小さく息を吐いた。その様子を見届けると花明は出された茶に手を伸ばし一口飲むと、今しがた老婆がしたように小さく息を吐いた。
「さて、それでは少し村を見させて貰う事にします。ここまで来ておいて何もしないでは、先生に怒られてしまいますから」
 笑ってそんな風に言うので、老婆も安心した面持ちでゆっくりと立ち上がった。
「へぇ、行ってらっしゃいまし。雪が降るかもしれませんけ、どうぞお気をつけて」
 見送りの言葉を受け、花明も立ちあがると机に放り出しておいたインバネスをさっと羽織った。