そして河童は川へ還らず
「バッタを見失っちゃあならねえぞ」
丁度、バッタがブッツケの急流から、緩やかな流れに変わるところに差し掛かった時だ。急に水面が割れた。
「あれ、バッタが消えただ!」
よねが叫んだ。三郎は糸の先を見ている。
「よし、今だ。あわせるだ!」
よねが竿を立てた。すると、よねの握る釣竿に魚の生命感が伝わった。ハヤの引きは「ひとのし」と呼ばれるくらいに強い。竿は弧を描いた。
「三郎、きただよ!」
「やった。ドンピシャだ!」
三郎は自分が釣ったかのように喜んでいる。ハヤの引きは最初の「ひとのし」が終わると弱まる。そこをゴボウ抜きにすれば良いのだ。
「引っこ抜いちゃえ」
三郎がそう言うと、よねは強引に竿を持ち上げた。すると、糸の先では尺近くもあるハヤが跳ねていた。
「やったな、よね」
「あはははは、お魚さん……」
ハヤはよねの透き通るような指の中で、苦しそうにもがいていた。
「これも、おかずになるべ」
三郎が笑う。よねも笑った。
「よねー、よねー!」
よねを呼ぶ声が響いた。さきが田圃仕事を切り上げてきたのだろう。よねを探していた。
「いけね。じゃあ、またな。その竿はよねにくれてやるだ」
三郎はそう言うと、ブッツケの流れの中へ潜っていった。よねが手を振った。糸のさきではハヤが跳ねていた。
「よね、そんなところで何やってるだ」
よねを見つけたさきが対岸から叫んだ。
「三郎と釣りをしていただ。ほれ、ハヤ……」
「しかし、三郎っていうのは、本当に河童か?」
吾作がよねに尋ねた。それは責めるふうでもなく。優しく問いかけたのである。
「うん。おらの友達だ。あはははは……」
「しかし、上流の淵から先しか河童はおらんとの言い伝えじゃったが、人里まで下りてくるとはのう……」
「優しい河童だで。おらの一番の友達だ。今日は釣竿もくれただ」
よねが釣竿を愛しそうに握り締める。吾作は「ちょっくら、貸してみろ」と言って釣竿を握った。
「確かに糸はテグスやバスじゃなさそうだな……。河童の髪か……?」
「でもよう、おとう、よねが河童と会っているって聞いただけで、ゾッとするだよ」
さきが心配そうな目で釣竿を見ている。
作品名:そして河童は川へ還らず 作家名:栗原 峰幸