そして河童は川へ還らず
この淵が河童の掟で定められた「境界線」であった。この淵より下流へ行くことは許されなかったのである。それは、おそらく河童と人間が長い歴史の中で培ってきた決まり事のようなものなのだろう。兄貴分の五徳からも「この淵より下流(しも)へは行ってはならぬ」と厳しく言われていた。
三郎は河原に上がった。そこには百合の花が咲いていた。百合を眺めていると、どうしても、よねのことを思い出してしまう。
(よねに会いてえ……)
今、三郎は更に河童の掟を破ろうとしていた。
よねの家は球磨川の側に建っている。納屋からは川面を眺めることができた。
「三郎、会いてえ……」
よねは納屋の中で寂しそうに呟いた。だが今日は見張りに母のさきがいる。勝手に納屋から出ることはできないよねであった。
よねは川面を眺め続けた。すると、どうだろう。瀬に河童らしき影が見えるではないか。
「三郎……?」
その影をよねが眺めていると、さきが「ちょいと厠へ行ってくるだよ」と腰を上げた。
すると、先は納屋から出て、一目散に河原に向かった。
「三郎、三郎!」
よねがそう叫ぶと、水面からニュッと三郎が顔を覗かせたのであった。そしてニコッと笑う。
「よね、会いたかっただよ」
「おらも会いたかっただ」
二人は見詰め合った。よねの瞳はどこまでも澄んでいた。三郎は「そうだ、この瞳をみたかったんだ」と心の中で呟く。そして、枝に刺したヤマメを六匹、よねに差し出した。
「これ、みんなで食ってけれ。昨日の百合のお礼だ」
「お魚さん、あはははは」
よねが無邪気に笑った。三郎は照れたように笑う。
「河童さんのうち、どこ?」
「球磨川の上流(かみ)だんべ。イワナの魚止め滝だぁ」
「よねもそこ行きたい」
「そりゃあ、無理だんべ。水の中では人さ、息できねえだよ」
「そうなの? 残念。でも遊びに来て」
「ああ、また来るだよ」
その時、さきがよねを呼ぶ声がした。三郎は「じゃあな」と言って、慌てて瀬に身を沈めて隠れた。
「三郎、また来てけれー!」
すると、瀬の中から水かきの付いた手が出て、左右に振られた。よねも手を振り返す。
「あ、よね。川さ行っちゃいかんと、あれほど言ったろうに……」
さきは呆れたような顔をして、よねの元へ寄ってきた。だが、ここに河童が来るなど思ってもいないさきは笑っていた。
作品名:そして河童は川へ還らず 作家名:栗原 峰幸