雨闇の声 探偵奇談1
ささやくは
どことなく、いつもと違う浮ついた空気が弓道場に流れている。主将が幾度か檄を飛ばすのを、伊吹は聞いた。集中力を欠くと、怪我にも繋がるのだ。
「オバケだ幽霊だと、迷惑な話だ」
終了の挨拶を終えたとき、主将が呆れたようにつぶやくのを伊吹は聞き逃さなかった。主将の宮川は昨年夏にこの弓道部をインターハイまで引っ張っていった立役者だ。厳しい指導者でもあるが、憧れている部員は多い。今年の一年生の中には、彼に憧れて入部した者も多いのだ。
「オバケ?幽霊?」
「今日、校内でおかしなことが続いたって」
おかしなこと。そういえば一年生が騒いでいた。誰もいない廊下で足音を聞いたとか、泥水で汚れたとか。大騒ぎになっていたから、二年生の伊吹でも知っている。
「聞きました。一年が随分怖がっていました」
部活の浮ついた雰囲気もこのためだろう。
「俺らの教室にも、おかしなもん見たっていうやつがいたよ。遅刻してきたやつがさ、玄関から誰かにつけられたって大騒ぎしてた」
「主将はオバケとか、信じないんですか」
「見たことないものは信じない」
なるほど、正論だ。豪気な主将の背中を見送り、道場を掃除する後輩たちを眺める。雨脚がまた強くなったようだ。外は漆黒。今夜は早めの帰宅を促すようにしよう。後輩たちを手伝おうと、モップを持って巻き藁室に入る。薄暗い。雨のせいで視界が暗いのだろうか。電気がついていても、なんだか不安になってくる。
「すみません先輩、俺やります」
矢取りに入っていた瑞が駆けてきて、横から手を伸ばしてきた。
「…ありがとう」
「いえ」
そばに来るとふわりと甘いにおいがする。柔軟剤?それとも香水だろうか。
校則は緩いので頭髪を染めることも違反ではないし、弓道部の規則は校則に依る。それにしたって派手なやつだと伊吹は思う。
「おまえ香水つけてる?」
「え?ああ、すみません。気になりますか」
気になるほどではない。そばに来ればほのかに香る程度で、嫌な気はしなかった。
「死んだばあちゃんがつけてたやつなんです」
「え?」
「お守りがわりっていうか、安心するんです。そばにいてくれるみたいで」
ばあちゃんっこだったのか、と伊吹の頬が緩む。なんだかかわいらしく思えた。大人びた表情や佇まい、隙のない射からは想像できない。
「なんだっけな、イチジクの匂いとかっていう」
「へえ…」
言いながらモップを動かす瑞を、伊吹はじっと観察した。
どこで見た?
いつ会った?
こいつは俺の、何だった?
作品名:雨闇の声 探偵奇談1 作家名:ひなた眞白