あの純白なロサのように
憎い?殺す?彼女は何を言っているのだ。確かに状況だけ見れば、俺が氷の魔女を追い詰めたように見えるだろう。しかし、俺が、何故彼女が憎いだなどとー…。
はっ、とした。
「…気づいていたのか?」
「もちろん」
淀みなく返されたその言葉は俺には衝撃だった。
俺を、あの弟の兄だと、気づいていた?そうして、俺が弟を殺したこの女の命を狙っていると、勘違いしているのか?
「憎まれるのは慣れている。月の騎士としてー…。…いや。もう全てが遅いか。明日の陽が昇ればわたしは騎士ではなくなるのだ。おまえはこの呼吸を止めずして、わたしの全てを奪った。見事だよ、太陽の騎士。他のどの人間ですら、わたしをここまで追い詰めたものはいなかった」
違う!
しかし俺の声は言葉にならなかった。
女はそのまま、振り向きもせずに自らの部屋に滑り込んでいった。
「違う、違うんだ、俺は、俺は、ただ…」
ようやっと情けない声を絞り出した頃には、時既に遅く扉は彼女の拒絶を示すようにぴたりと閉まり、岩のように沈黙していた。
ついに俺が彼女を憎んでいるという勘違いを訂正することなくドアを閉じられたと言うことに気づいたが、もう遅い。
開かぬ扉をただ見詰めていたその時、ふと思った。
俺は、何か間違えたんじゃないだろうか、と…。
彼女を自由にしてやろうとずっと思ってきたが、俺は一度も当の本人の言葉を聞いたことはなかった。彼女は、どう思ってるんだ?彼女の本当の望みは何だ?俺は城に来てから、一度だって彼女の笑顔を見たことがあったか?俺は、何か取り返しのつかないことを、したんじゃないか…。
そして、誤解を解く切っ掛けもなく、それ以降彼女にまみえることもないまま、その予感は当たってしまうのだった。
それは、一月の後のことだった。
「月の騎士が、いない!?」
王は色を失って椅子から立ち上がった。
「それはどういうことだ!?」
しかし王の様子とは反対に、大臣達はのんびりしたものだった。
「さあ?三日ほど前から姿が見えないと侍女が話しておりましたが」
「そなた達、それを知りながら何もしなかったというのか!」
「これは…御言葉ですが、月の騎士を解任されたひとりの女性の行動を、わたくしどもがどうしていちいち把握できましょうか」
「それに、こう申しては何ですが、我が国には太陽の騎士殿がいるではないですか。王ももう不要だと思ったからこそ、月の騎士を解任されたのではないですか?」
「痴れ者っ!」
王は一喝した。いつもと違う王の様子に、さしもの大臣達も一様に口を噤んだ。
王の焦りはわかる。なにせ、水面下で進められていた婚姻の日は、もう一週間後に迫っていたのだから…。
俺は呆然と立ちすくむだけだった。
やっとすわ誘拐か、と騒ぎだす面々だが、こんなことを言うやつもいた。
「これは、このタイミングで姿を消すとなりますと…もしや敵国に寝返ったと言うことも考えなくてはなりますまい」
「何、それは聞き捨てならないのではないですかな?」
「我が国は、つい三日前に隣国と戦争をすることになりましたな。その当日に失踪とは…あまりにもできすぎてはおりませぬか?」
「そういわれれば…とと」
王の無言の剣幕に、皆慌てて口を閉じたが、そういう疑問が一度芽生えれば例え王であっても消すのは容易ではない。
「彼女はわたしの王妃になる女性だ!」
王のその声にも、まさかという失笑が漏れただけだった。
「彼女は氷の魔女ですぞ?お戯れも程ほどに為さいませ」
「案外、それが嫌で逃げ出したのかもしれませんしな」
…俺は、きっとその言葉が真実なのだと思う。
雨上がりの独特な匂いが、都を包む昼下がり。俺は城の喧騒を逃れて、ひとりで塔の天辺に来ていた。白い城壁は、雨に濡れてつやつやと光っている。空は果てなく続き、山は王都を囲う。山頂は一足早く白く染まっていた。あれはじきに野裾を下り、王都に辿り着く。冬が来る。命凍える冬が。
彼女は、優しく、そして頭の回転も良かった。たった一瞬で、仲良くしていた弟の命を秤に掛け、そして自らの手で奪うと覚悟できるほど、決断力もあった。
あの夜…王妃にと恋われた夜、彼女は果たして何を考えていたのだろうか。
俺はわかる気がする。
一旦は承知し、秘密にしてと願い、それが現実となる前に跡形もなく姿を消すー…一度は驚いたものの、じっくり考えてみれば彼女のやりそうなことじゃないか?優しい、彼女の。
事実はどうであれ、彼女が残虐非道な氷の魔女、と呼ばれていたことは、物乞いの子供ですら知っていた。噂とは無責任なものだ。その彼女が人望厚い王の后、まして正妃になるとなったら、周りはどう思うだろう?
恋しい王が自分のせいで貶められるぐらいならと、彼女は躊躇無く身を引くことを選んだに違いない。
それにー…俺は、これでいいとも思っていた。
幼い恋を成就させてやれなかったのは残念だが、美しく優しい彼女には権力や身分なんてものとは無縁のところで、静かに幸せに暮らして欲しい。
それに戦争が始まってしまった。
敵の隣国は一年中雪に塗れた国だ。雪中行軍なんてお手の物の筈だ。通常、冬は雪が行く手を阻むので、自然と戦争も休止状態になるのだが、今年はそうは行くまい…。厳しい戦いになりそうだった。
この国がこの戦争に勝てるかは、この冬をどれだけ被害無く持ち堪えられるか、にかかっている。
俺はむしろ、彼女が隣国へ寝返っていてくれていれば良いとすら思っていた。
なぜなら、隣国はその領土の大半を雪と氷ばかりに覆われているとは言え我が国の二倍の面積を持つ…今回の戦、こちらには正直分の悪い戦いだからだ。
しかしいくら勝機薄くとも、太陽の騎士と呼ばれる身である俺は、先頭に立って戦わなければならない。それはやはり覚悟したとは言え…重いものだった。氷の魔女と呼ばれ、忌み嫌われながらも、彼女はこの国を守るために、こんな思いを何度も何度もしたに違いない。か弱い女の身で。なにがそこまで彼女を強くするのか。
俺は想いを振り切るように曇り空を見詰めた。
いや…いい。もう、彼女は全てから解放されたのだ。どこかで、なにも隠すことなくただ笑っていられればいい。それ以上は何も望むまい…。
もう二度と会えないと思うと、あのロサの泉で笑っていた彼女が懐かしかった。
都が雪に覆われた頃、敵は想像以上に激しい強さで以てこの国を襲った。
隣国の兵は、やはり冬に強かった。流石雪に慣れた暮らしを送っているだけはある。進軍の早さも考えられないスピードだった。
敵の手は国内を徐々に染めていった。俺一人が強くても、どうしようもなかった。当然だ。この国は、ひとりの少女に寄りかかっていたツケを今払っているのだ。当然の報いだ。
そう思えば国は憎いが、俺は俺を友と呼んでくれた聡明な王が好きだった。王がこの国と共に滅ぶのは許せない。ならば、戦うしかない。
国民の精神も疲弊していた。あれだけ英雄視されていた俺だが、少しでも勝てば最期の希望とばかりに持て囃され、敵につけいられる隙があれば、容赦なく非難され石を投げられた。
それは…仕方が無いことだ。国難に勝てぬ英雄など意味が無いのだ。悲しいが理解は出来た。
作品名:あの純白なロサのように 作家名:50まい