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あの純白なロサのように

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 ロサの泉にいた女が、もしも、氷の魔女であるなら。
 何故、弟を殺したのか。
 女の心から楽しそうな笑顔が何度も何度も脳裏を過ぎり、答えは出なかった。あの笑顔の中に、弟を殺したい理由など、ひとつも無いはずだったからだ。
 それならばと逆のことを考えてみた。
 もしも、女が、弟を殺さなかったら。
 普通、王家に刃向かったものは絶対に殺さず捕らえられる。死なせてくれと自ら懇願するほどの悲惨な拷問を加えられ、そして苦痛という苦痛を味わわせた後に見せしめのために殺されるのだ。女も、子供も、老人でさえ容赦なく。王の権威を守るため、ただそのためだけに。
 だから弟も同じ道を辿っていたのは想像に難くない。
 どれほど拷問が残酷なものか、それを誰よりもよくわかっているのは王を取り巻く騎士だろう。弟の心臓を一突きする手際は見事だった。きっと弟は、痛みを感じる間もなく黄泉路に転がり込んだに違いないのだ。
 王に向かって走って行った時点で、どうやっても弟の死は免れなかった。ならば、せめて自らの手で優しい眠りを…と考えたのだろう、あの一瞬で。
 誰が心を凍らせた氷の魔女だというのか。これほど優しい女を俺は知らない。一体誰が、仲の良い友を進んで殺そうとなどと思うだろう。
 生かして捕らえるべき罪人を殺すのもまた罪だ。あの後、彼女は何らかの罰を与えられている筈なのだ。騎士が規則を破っては示しがつかないのだから。全ての罪を自らが被り、一切言い訳せずに黙している彼女こそ真の騎士と言えよう。
 それとまた、この国は氷の魔女に寄りかかりすぎているとも感じた。
 氷の魔女を恐れ嫌いながらも、その並ぶものない強さ故に厄介扱いしながら祭り上げている、王や国民達。
 今、氷の魔女がいなくなればこの国は危うい。それほどの存在だった。
 国の運命が一人の少女の肩にあって良いはずがない。
 俺の父は昔、黒の騎士と呼ばれた剣の使い手だった。この世界で並み居るものがないと言われたほど。同じように国の運命は父に左右される程だった。
 しかし六年前に流行病にかかり、父母ともあっさり死んでしまった。
 それからの一年はこの国の地獄だった。その間他国に侵略されなかったのは、ひとえに現王の手腕だ。
 混乱していた国はひとりの少女に目をつけた。その時彼女は弱冠十歳。でも形振り構っていられなかった国はすぐに飛びつき少女を祭り上げた。
 俺は黒の騎士の息子と言われることが嫌で、都の森の奥深く、家を建てて弟と二人住み着いた。運良く引きずり出されることなく、今までも、そしてこれからも、ひっそりと生きるつもりだった。
 しかし、もう、この女に頼り切っている国には我慢がならない。
 戦神と呼ばれた父の血を引き、直接指導して貰った俺には力がある。
 武術大会で優勝した俺を、国は放って置かないはずだ。
 俺が一人でこの国を背負うのはいい。覚悟は決めた。でも女は開放して遣って欲しい。
 ひとりの女に戻してやりたい。
 氷の魔女の噂は酷いものだった。極悪非道、敵を一刀のもとに殺す。笑ったところは誰も見たことがない。人の心を持ってない。厄介者。
 いいや、それは違う。彼女は、笑っていた。あの誰も来ないような森の奥で、白い花に囲まれてあんなに楽しそうに笑っていたのだ。
 およそ人が通りかかるような道から遠く離れたロサの泉に彼女が現れたことをずっと不思議に思っていたが、やっとわかった。それは必然だったのだ。彼女は、誰かの前で泣くことも、素直に笑うことも出来ないのだ。氷の魔女というただそれだけが故に。感情を見せられない彼女が苦しみながら森に分け入り、人の目を避け彷徨いながら辿り着いたのがあのロサの泉だったのだと思うと胸が詰まる。そして弟と出会った。
 氷の魔女なんかじゃない、彼女は犠牲者だ。
 友の死に心痛めて涙する、優しい優しい女なんだ…。
 俺は目の前の女に手を差し伸べた。
 女はそれを見てすっと表情を消すと、音もなく自分で立ち上がり、俺には目もくれず歩き去って行った。
 それは間違いなく長年彼女が被っていた、氷の魔女の仮面だった。
 俺はとられることなかった手を握りしめ、その背を複雑な思いで見ていた。
 本当は。
 苦しまなくて良いと、言いたかった。
 誰も…俺も、弟も、恨んでなんかいないのだと…。
 後日俺は城に呼ばれ、改めて王からお褒めの言葉を賜り、正式に騎士になった。最高位の騎士には星を冠した呼び名がつく。氷の魔女は正式には「月の騎士」と言う。俺には…「太陽の騎士」の呼称を賜った。
 王は甚(いた)く上機嫌だった。それもそうか。氷の魔女以上の強さを持つ人間が見つかったのだから。
 その夜の歓迎会では、俺はあらゆる人にもみくちゃにされた。
 できすぎじゃないかと思うぐらい、俺は皆に好感を持って迎えられた。
 一人の男爵が俺の肩を馴れ馴れしく叩きながら言う。
「そうだ!今度視察にも行こう!来たる戦争に備えて、行くのは最高位の騎士じゃないといけないから氷の魔女に頼む予定だったが、あんな女より貴殿の方が良いな!」
 それに反応したのは、氷の魔女本人だった。
 無表情で、つかつかと俺のところに来た。隣の男爵に冷たい目を向ける。
「男爵殿、それは既にわたしに頂いたお話のはずでは?わたしもそれに向けて準備を進めておりますが」
「ははは、御前試合で黒の騎士殿にあっさり負けておいてそんな口がきけるとは片腹痛い!偉そうなことを言う前にその腕を磨いたらどうだ?そのうち最高位の騎士の名誉も剥奪されるぞ!」
 女は男爵の嫌味にその長い睫をただ瞬きさせて、くるりと踵を返した。
 俺は咄嗟に後を追った。
 ずんずんと進む女の腕を掴んで、その細さに驚き、考えていた言葉が全て飛んでいってしまった。
 女は俺を振り返った。
 今日の女は、王から送られたという正装の銀のドレス姿で、とても美しく着飾っていた。耳元につけた白い結晶を模した耳飾りが揺れる。
 女は腕を掴んでいるのが俺だとわかると嫌そうに顔を顰めた。そして乱暴に振り解く。そのまま一切振り返らずに歩き去ってしまった。
「まっ…」
 引き留めて何をしたい訳じゃない。そう我に返って、掛けようとした言葉は呑み込んだ。
 …俺の望んでいるとおりに事が進んでいるはずだ。
 女を、戦争の道具じゃなくて、ただの女に戻してやる。
 そのためには、女の肩の荷を降ろしてやらなければならない。
 肩の荷を降ろすと言うことは、こういうことだ。女が負っていた戦いに関しての何もかもを、俺が肩代わりするのだ。
 このままで、いい、筈なのに…。
 俺はどこか釈然としないものを抱えながら、自分の席に戻った。男爵は偶然当たったと装って多少強めにどついておいた。
 俺の周りには人が溢れた。
 城の一室に部屋を貰い、そこには引っ切りなしに人が訪れた。女も、男も、下仕えのものから、王族まで、あらゆる人が黒の騎士を見たがった。しかし、一人だけ、そんな俺を訪(おとな)うことのない人がいた。
 氷の魔女、その人だった。