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あの純白なロサのように

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 そんなに、心を砕くように泣かなくていい。弟は、あなたに会えて、あんなにも幸せそうに笑っていたのだから…。
 しかしそれを伝えるべき手段は何もなかった。女は、もうここにはこないと直感があった。 
 果たして、それから何度ロサの泉に行っても、俺が女に会うことは二度となかった。

「酷い女さ、あれは。パレードの事件を見た?動揺もしないで小さい子供を容赦なく一突き、だよ。いくら王様のためとは言え…きっと流れる血も冷たく凍っていることだろうよ」
「近づきたくもないね。死神とも呼ばれているそうじゃないか。そりゃあ敵を殺してくれるんなら良いけど、ねぇ、不幸を持ってきそうで…」
「誰が何を言ってもにこりともしないんだって。いつも不気味な甲冑を着込んでいて、それでいて恐ろしく強いから軍も強く言えないんだとか…」
 今日も酒場は賑やかだ。
 俺は酒を飲みながら、色々な噂話を聞くとはなしに聞いていた。
 この国には、氷の魔女と呼ばれる女がいる。
 その女は、途轍もない嫌われ者らしい。
「そういえば、今年も武闘大会があるんだろ、お兄さんもそれに出るのかい?」
「まぁな」
「最後まで残るのはやっぱり氷の魔女だろうな。今年は骨のあるのがいると良いが」
「そうだな」
 いきなり隣の男に話しかけられて、俺は適当にあしらった。
 しかし話しかけた男は、おっと言うように俺の顔を見て黙り込んだ。
「お兄さん、黒の騎士によく似てるな…」
「髪も目も黒いからな」
「いや、それだけじゃなくて…」
「ごちそうさま」
 俺は酒場を出た。
 室内との気温差に首を竦め、正面に伸びる自分の影を見るとはなしに見ながら歩く。
 黒の騎士、か。顔を隠さず都に来ればそう言われるだろう事はわかっていた。まさか自分がこうして、都の武闘大会に出る日が来ようとは思っても見なかったと皮肉な笑みが浮かぶ。
 武闘大会は王室が開いているだけあって、甲冑を着込みフェアプレーに則って行う御前試合みたいなものだ。しかし貴賤問わず参加できるし、真剣で戦うとは言え命を奪うのは御法度(ごはっと)なので、不慮の事故さえなければ、失うものが少ない。その上優勝すれば最高位の騎士にもなれるので参加者も見物人も大層多い。当然、王も見に来る。娯楽の多い都でも、パレードの次に盛り上がるのがこの武闘大会だった。
 弟のいなくなった俺の四季はあっという間に過ぎた。俺はいつも酒場に入り浸っては考え事をしていた。夜は斧の代わりに剣を振った。
 パレードの時のように、その日が近づくにつれ、都は武術大会一色に染まっていった。
 さて、皆が期待するその武闘大会だが、呆気ないものだった。俺にとって。
 年季の入った黒ずんだ甲冑を笑われたのは最初だけ。俺の前に続々と膝をつく猛者達。観客は色めき立った。無名の俺が圧倒的な強さでもって勝ち進んでいるのだ、それはいい英雄物語だろう。俺も他人事だったら凄いなと目を輝かせていたかもしれない。
 そして誰からともなく気づく。あの甲冑、見覚えはないかと。
 この国の行く末が心配になるほどに、手応えのあるやつはいなかった。
 そう、たった一人を除いては。
 決勝戦、俺の目の前にはしなやかな白銀の甲冑を着た騎士がいた。
 氷の魔女。
 パレードの日、弟の命を一刺しで奪い去った女だ。
 女を前にして、俺は一種の感動で鼓動が高まるのを強く感じた。
 弟が死んで、あの夜女の涙を見てから、俺はこの日をずっと望んでいた。
 顔も隠さず、決して出ないと決めた森の家を捨ててきた。父の形見の甲冑を着込み、身を隠すことなく堂々と日の下に立つ。
 始め、の合図が降りても、俺たちは微動だにしなかった。
 強い日差しに景色が揺らぐ。
 先にしびれを切らしたのは観客席だった。訝しげにざわざわと響(どよ)めき出すが、そんなことも気にならないぐらいに俺は女だけを見ていた。女も動揺することなく、俺だけを見ている。 互いに互いの強さを、睨み合うだけで感じていた。
 右…いや、左…できれば足を狙いたいところだが…。
 相手の出方を探り、息詰まるような空白の時間が流れる。
 古びた鎧の内側を、汗が伝う。
 ここまで、俺が睨み合ったまま動くことが出来ない相手がいるとはー…。
 噂も強ち、馬鹿にしたものではないと言うことか。
 このまま睨み合っていれば、体力の面から言っても俺が勝つのは明白だが、それでは皆が納得するまい。
 俺はそう覚悟し、ふっと軸足に体重をかけた。
「!」
 勝負は一瞬だった。
 果たして皆は一体何が起きたかわからなかったに違いない。
 ひとつ瞬きをして目を開ければ、観客には腰を床につけている女と微動だにしていない俺が映っただろう。誰が見てもわかる。女の負けだ。呆気ないほどの終わりだった。俺は勝ったのだ。勝敗ついた相手を更に傷つけ、まして命まで奪うのはルールに反する。そこで試合は終了の筈だった。しかし俺は、尚も一歩踏み出した。王が焦ったように立ち上がるのが目の端でわかった。止めようと走り出した衛兵は間に合わない。
 俺の剣が甲冑の隙間、首元に食い込んだ時も女は微動だにしなかった。
 無骨な甲冑の下の表情は見えない。
 命乞いも何もすることなく、女は、ただ、俺を見上げていた。
 観客は水を打ったように静まりかえった。俺の次の行動を、息を呑んで見守っている。
 俺は心が震える心地だった。この女は、覚悟を決めている。戦いについての、覚悟を。
 見事だ!
 俺は一息に剣を跳ね上げた。ぽーんと高く高く兜は飛んだ。兜だけが。
 さらりと日に透ける白金の髪が揺れる。
 自らが地に腰を着ける屈辱に頬が紅潮している女―…見間違いもしない、あの、ロサの泉にいた女だった。
 弟は見抜いていたのだ。顔まで隠れた甲冑の上からでも、この女のことを。
 弟を殺した騎士が、この女だったのだ!
 俺は自らの兜にも手を掛けると毟り取って放り投げた。
 日の光が眩しく瞳を射す。
 地に二つの兜が落ちたと同時に、うぅわ、と観客席から地響きのような歓声があがった。
「黒の騎士だ!」
「黒の騎士が氷の魔女を倒しやがった!」
「黒の騎士の再来だ!」
 女は観客の様子に心揺らすことなく、ただ苛烈な瞳で俺を見ていた。
 俺も沸き立つ心を抑え、極めて静かにそれを正面から受け止めていた。
 二人でただ見つめ合う。
 多分初めてだと思う、女が俺をちゃんと見るのは。
 女はきっと、俺の顔すら覚えてないだろう。森の奥ではいつ何時でも、女の心は常に、弟に向けられていた。
 女は俺を、あの弟の実の兄だとも知らずに、悔しさが滲んだ瞳で見ている。
 弟を殺した氷の魔女に、憎しみがなかったとは言わない。俺もずっと迷ってきた。大事な弟だった。たった一人の弟。誰かを憎むとしたらあの白銀の鎧を着た騎士しかなかった。しかし守り切れなかった我が身に絶望し、憎しみに身を焼かれた時も、不思議とロサの泉で見た女の涙が目の裏に浮かび、そのぎらぎらと光る抜き身の刃のような感情にすっと鞘をするように収めることが出来た。そんなことを繰り返す内に、憎しみは薄れていき、そして女の覚悟を目の当たりにした今、清々しいほど綺麗に消えてなくなったのだ。
 俺はずっと考えていた。