先輩
「それは美紀さんになりきった、創作の世界の桃瀬さんの気持ちなんだ。つまり――彼女の中での美紀さんという存在は、現実の世界で僕と出会い、好きになったことで、本来は自分と同じ同姓愛者と思っていたのが異性愛者と見なされ、現実の世界から創作の世界の存在へと移り変わっていってしまったんだ」
「わ、わたしが――」
リンの思う、現実の世界からいなくなってしまったということか?
「そうだね。だから彼女は美紀さんを嫌いになったわけではなく、彼女の思う現実世界に美紀さんはいなくなり、創作の世界で彼女は美紀さんになった――と僕は考えてるんだ。……本当にそうかどうかは、定かではないけれどね」
あくまで僕の想像に過ぎない話だ、と言って先輩は話を結んだ。
確かに、不思議な話だ。
私の中のリンは他人であり、親友であり、現実の世界に存在する女の子だ。
私は同性愛者ではないので、リンに対して恋人としての好意は抱いていなかった。もちろん創作の世界の人物とも思っていなかった。
しかし現実のリンは、私に好意を抱いたのだ。ただ、私がリンの思う創作世界のような恋愛――つまり異性愛をしたことにより、彼女は私を現実の女としてではなく、創作された女としてしか見ることが出来なくなってしまったのかもしれない。
馨先輩の考えを当てはめると、リンも親友である私を失ったようなものなのだ。
しかし――、
「で、でも、沙耶さんもお父さんのことが好きだったんですよね? それでもリンは沙耶さんのことは現実世界の人として、同性愛者として見ていたんですか?」
「沙耶姉さんは、確かに父のことを愛していた。ただ、異性としての好意は抱いていなかったんだよ」
「そんな!? だって沙耶さんは、お父さんと再会できたとき、あんなに喜んでいたじゃないですか!」
「美紀さんは、お母さんとお父さんは好きかい?」
「そ、それはどういう意味で、ですか……?」
「恋人としてではなくて、家族としてだよ」
「……好き、ですね」
一緒に住んでいるのが嫌だと一時的に思ったり、時々口喧嘩もしたりはするが、嫌いと思ったことは一度もない。感謝もしているし、父と母がいなければ私は生きていけない。
「じゃあお姉さんは? 家族として好き?」
「好き、です……」
「沙耶姉さんも、その好き、なんだよ」
私の頭の中で、古い漫画のひらめいたときの表現のように、豆電球の明かりがついたような気がした。
「その好きって、つまり――」
「家族として、父親として、愛しているんだ。だから恋愛感情じゃない」
「じゃあ、リンと付き合ったのは、どうしてなんですか……?」
生徒がこちらをちらりと横目で見ながら前を通り過ぎていく。そんなことなどお構いなしに馨先輩は話していく。
「沙耶姉さんは、当初は桃瀬さんから僕や美紀さんたちに関しての情報を手に入れるためだけに、彼女に近づいた。そしてある程度の情報を掴み、用済みになった桃瀬さんに性的暴力を加えることで、ショックを受けた彼女をそのまま捨てようとしたようとしたらしい。麻薬を使わず性的暴力を選んだのは、自分がされて嫌だったことであり、心に大きく傷がつくこと――すなわち犯されること、だったからかもしれない」
確かに、蹴られたり殴られたりして身体的暴力を受けるよりも、性的暴力を受ける方がショックは大きいかもしれない。私にはまだよく分からない話だけれど。
「だけど――桃瀬さんは暴力をされたにも関わらず、むしろそれを喜び、ますます彼女のことを好きになってしまった。それにもちゃんと理由はある。……リストカットって言葉を知ってるかい?」
馨先輩はまた違う話題移した。
「少しなら……。自分の腕とかを、刃物で切っちゃうんですよね……?」
自分で言いながら想像すると、少し怖くなった。
「そう。自傷行為のひとつだね。リストカットを何故行ってしまうのかは人それぞれだ。自殺したいけど死ぬ勇気がないからその代わりに切る。自分の体が嫌だから傷つける……など。これも彼女の日記によるものなんだけれど、桃瀬さんは、リストカットもしていたんだ」
そういえば書いてあったかもしれない。私は怖くて、そこだけ流し読みしてしまったんだった。帰ったらもう一度ノートをしっかりと読み返そう。
「そこにはリストカットをしてしまう理由もしっかり書いてあった。腕を切った時の痛みが、精神を一時的に安定させる――と。しかし、同時に自分の身体を自分で傷つけてしまうことによる自己嫌悪や後悔で、再び不安になるとも書いてあった。それの悪循環を繰り返してしまっていたらしい」
リストカットというものも、法には触れないけれど、麻薬と似たようなものなのかもしれない。
「それを解決してくれたのが――沙耶姉さんだったんだよ」
馨先輩は言った。沙耶が犯したことで、リンは不安から開放されたのか?
「桃瀬さんは、犯された時に首をナイフで軽く切られていた。その痛みが精神を一時的に安定させた。そしてそれを行ったのは自分ではない。好意を抱いてくれていた、沙耶姉さんだったんだよ」
「リンの理屈だと、自分で切るのは有罪だけど、他人に切られるのは無罪、ということですか?」
「恐らくはね。しかも、身体に傷をつけたことを、沙耶姉さんは『私なりの愛』だと告げた。それを聞いて、桃瀬さんにとって沙耶は好きな相手であり、不安をなくしてくれた救世主にもなったんだ」
リンは沙耶に犯されている間、ずっとアイマスクをつけていた。だからナイフで切られたというよりは、愛という行為、つまりその時の痛みを性的快感だとも思い込んだのだろう。被疑的感情がある人は、人によっては極度の痛みも快感になるらしい。だからリンも、少しだけマゾヒストの部類だったのだろう。
「沙耶はね……サディストだった。だから性的暴力をして喜んだ桃瀬さんのことが、当初の予定とは違い、本当に好きになってしまったんだね。彼女が同性愛者だったのかは分からないが、幼い頃から組員と夜を共にしたことから、男性恐怖症だったり、議事恋愛を望んでいたのかもしれない。だから、桃瀬さんが亡くなった時も……彼女は相当ショックを受けていたんだと思う」
「でも、リンは沙耶さんがストーカーで、生徒を襲っていたってことも知っていたんですよね? それでも何故、リンは彼女のことが好きだったんですか!?」
「桃瀬さんは……それを犯罪などとは思わず、単純に浮気のようなものと感じたのかもしれない」
「う、浮気……!?」
「沙耶姉さんが襲った相手――つまり被害者は二人とも女性だ。これが男性だったら、美紀さんのように彼女も現実世界の人間ではなくなっていたんだろうけどね。それに桃瀬さんは姉さんが二人を襲ったことは知っていても、どのように襲ったかなんて知らない。だから――姉さんは自分の時のように性的暴行を相手にしたんじゃないか、と桃瀬さんは疑ったんじゃないかな」
リンにとっては沙耶がストーカーだったとかは関係なく、むしろ自分以外の女子を襲ったことに不満があったのだろう。
「それが命を絶った理由かは分からないが――彼女がそのことを知ったのは、自殺する前日のことだったそうだ」
馨先輩がそう言い終わると同時に、学校のチャイムが鳴り出した。