先輩
机を囲んで二つある椅子の奥側に座る。今頃になって馨先輩の家に上がっていることに気付き、急に心臓が激しく鳴り出した。
「お、お茶か紅茶、飲む……?」
馨先輩も少し緊張しているようだった。
「えっと、じゃ、じゃあお茶でお願いします……」
さっきまで偉そうなことを言っていた自分が、今になって恥ずかしくなってきてしまった。年齢も成績も、何もかも私より上の馨先輩に向かって、あんなことを言ってしまうなんて。だからといってさっきはごめんなさい、と謝っても、馨先輩を混乱させてしまい、かえって気まずくなってしまうだろう。
私はとりあえずカッカと熱くなった顔を足元に向け、馨先輩がお茶を持ってくるのをじっと待った。
五分ほどして、馨先輩が紙コップ二つと急須を持ってきた。
「ごめんね。この部屋にお客さんなんて今まで一度も来たことなかったから、ちゃんとしたものがなくて……」
「あ! いえ、全然かまいません!」
私は自分の顔の前で、空中に文字が浮かび上がるおもちゃを持っているかのように両腕を左右に激しく振った。いくらなんでもオーバーリアクションである。
馨先輩は席にすわり、慣れない手つき――というのも失礼だが――で、紙コップにお茶を注ぐ。跳ねたお湯が手について声が出そうになるほど熱かったが、馨先輩にこれ以上気を使わせたくないので、なんとか堪えた。
「いただきます」
コップを口に持っていって馨先輩お手製のお茶をいただいた。
お茶っ葉を本当に使ったのか? というぐらい味がなくて、ほとんどお湯を飲んでいるのと変わらなかった。これもまた大変失礼な言い方だが。
「……今度は失敗しないように、しっかり練習しておくね」
自分のお茶を口に運んだ後、馨先輩は顔をしかめて苦笑いした。
私は膝の上に置いていたリンの日記を机の上に出した。ピンク色のノートには小さな傷や折れ目がついていて、「リンゴ」と名前が書かれたシールは少し剥がれていた。
「ただ……それを読むと、彼女のことを知りすぎて、もしかしたらショックを受けてしまうかもしれない……」
私は迷った。読むべきか、それともこのまま家に持ち返り、読まないでどこかへしまっておくべきか。
「私は……リンを、もっと知りたいです」
「分かった。そういう気持ちなら――読んでもいいと思うよ」
馨先輩は笑顔ではなかったが、優しい口調でそう言った。
ノートを開くと、最初のページには今年の始業式のことが書かれていた。
下駄箱前での私とのやりとりや、Dクラスに追われたときのことなど、日記にしては、意外と細かく詳細に書かれている。私は一文字も飛ばさずに、黙って一ページ一ページを読んでいった。馨先輩も無言でじっと私のことを見つめていた。
リンの日記には、日常の出来事を細かく記した日記の他に、最近読んだ本の感想や、「純情宣言!」のレビュー、さらには「私と馨先輩の恋物語」なんていう一部にリンの妄想が入った小説までもが書かれており、盛りだくさんな内容だった。
しかし――その中にはリンが精神的に苦しんでいたことや、沙耶との関係について悩んでいる内容も所々に書かれていた。
そして最後に遺言を残して、日記はノートの半分ほどで終わり、残りのページは全て白紙になってしまっていた。
ノートを閉じ、私は眼を閉じた。
私は――リンのことを本当に理解していたのだろうか。
他の友達よりは付き合いも長いのだし、ある程度理解していた自信はあるが、それでもリンのことを百パーセント理解しているとは言えなかった。現にこの日記を読んで今まで知らなかったことが山ほどあった。
はたして――そんな私は、リンの親友と言えるような存在だったのだろうか。
私は、リンに何をしてあげられたのだろうか……。
私は、リンの友達といえたのだろうか……。
彼女の口からは、その答えを聞く事はもう出来ない。
私は……。
「美紀、さん……」
悲しまないようにしようとしていたのに、我慢できなかった。ノートの表面に水滴がいくつも垂れた。
そしてそのまま、声を出して泣いてしまった。
馨先輩の部屋だとか、馨先輩が目の前にいるだとか、そういうことはもうお構いなしに、大泣きした。
リンを失った悲しみが、今この瞬間私の心の中へと一気に押し寄せてきた。
ひたすら泣いた。泣き続けた。
人の家で夜通し泣くなんて、迷惑にも程があると思った。
やっと泣き止んだときには、日が昇り、カーテンの隙間から明かりが漏れていた。
私は泣きながらいつの間にか眠ってしまっていたようだった。椅子に座ったまま、机に頭をつけていた所為で、おでこに真っ赤な跡がついていた。背中には、薄い掛け布団がかかっていた。馨先輩がかけてくれたのだろう。とことん迷惑な女である。
布団を折りたたんで部屋の隅に置き、カーテンを開けた。空は快晴だった。雲ひとつない青空とはこのことである。
部屋を見渡すが、馨先輩の姿はない。寝室も扉が開いたままになっていたので、覗いてみたが、ベッドの上には布団が丸めてあるだけで、誰もいなかった。
――どこに行ってしまったのだろう?
とりあえず元の座っていた――というより寝ていた椅子に戻り、じっと馨先輩が戻ってくるのを待った。
三十分ぐらい経った時、玄関が開き、馨先輩が顔を出した。
「先輩っ!」
馨先輩はそのまま手招きした。なんだろう?
私はリンの日記を鞄に入れ、かかとを潰したまま靴を履いて部屋を出た。
そこには、馨先輩と、怒っているのか悲しんでいるのか、喜んでいるのかよく分からない表情をした、母が待っていた。
「美紀……!」
「母さん!」
昨日あのまま寝てしまったので、連絡していなかったのだ。
何と言って事情を説明すればいいのか。というより馨先輩が母を呼んできたのだろうか。
「あの、その……えっと、せ、せんぱいが」
「話は彼から聞いたわ。――とりあえず、ご迷惑でしょうから早く家に帰りましょ」
母はほっと目を閉じてため息をした後、私の腕を掴んだ。
「すいません。昨日僕がおうちに送ってあげればよかったですよね」
「いいのよ〜! かおるくん優しいからあたしも安心したわ! でも最近ストーカーみたいな怪しい男がうろうろしてるらしいから、かおるくんも気をつけるのよ? 最近は男の子だからといって、安心できないんだから! ほんと物騒な事件も多いし、どうなっちゃうのかねぇ、日本はいったい」
ぶつぶつ世間話をする母に、馨先輩は、はぁ、とか、えぇ、としか言えなくて反応に困っている。というかストーカーももう存在しないし、物騒な事件も、昨日目の前で体験してきたのだが……。
私と母は馨先輩にしっかり御礼をして、そのままアパートを後にした。
母は馨先輩から一通り聞いているようだった。リンのことやストーカーのこと、さらには昨日校長室で起きたことまで今朝早起きして私の家に来て、かなり細かく説明してくれたらしい。しかし自分の家族が起こした大事件だったのに、それを他の人に話すことが出来るなんて、馨先輩はそうとう精神が強い。
「美紀――」