先輩
2
体育館に生徒が集まってから三十分ほどして、やっとのことで始業式は始まった。
三年生も無事集まり、吹奏楽部の先輩達も全員席に着いた。
「どこのトイレに行ってたの?」
ともちゃんやまわりの部員の人に聞かれたので、
「道に迷っちゃってずっと校舎をうろうろしちゃってたの。うふふ」
とリンが笑顔で言った。ともちゃんたちは、うふふは余計よ、と言いたげな顔をしながら、「ふーん」と言って指揮台へ体を向けた。
教頭先生による開式の言葉が終わり、吹奏楽部の伴奏による校歌斉唱が始まる。
加藤先生が指揮台に立ち、部員をぐるっと見回し、小さく頷いて両腕を挙げた。
前奏が始まった。私たち低音楽器は、校歌の伴奏だとほとんどメロディーを吹かないので、正直退屈である。
私はファゴットを吹きながら、ふとさっきの出来事を思い出した。ほんの何分か前のことのはずなのに、私にとっては何日も前の事のように思える。いや、現実とも思えなかった。夢だったんじゃないのか、と今でも思っている。
あの時――。
笑顔の人形――馨という青年に向かって、Dクラスの二人は罵声を吐きながら彼に近づく。一人が拳を上げながら走ってくる。
「危ないっ!」
馨先輩(三年と言っていたから上級生なのだろう)の元へ向かおうと立ち上がったリンを、私は腕を掴んで止めた。ここでリンが助けに行ってしまったら、逆にリンの方が危ない。アイコンタクトでリンは納得したらしく、すぐに腰を下ろした。
しかし、リンの言う通りこのままでは先輩が危ない。誰がどう見ても「ヤクザです」と体で表しているような体格の、ジャンクテープコンビより、長身だが痩せているビューティフルチェロな先輩の方が弱く見える。……自分のネーミングセンスの無さに少しがっかりした。
そんな状況でも先輩は笑顔のまま動こうとしない。
一人の拳が先輩の顔に向かってきた瞬間、先輩は急に真顔に戻り、ほんの少しだけ顔を横に傾けてかわした。
「なにっ!?」
相手は間抜けな声を出した。そして先輩はその腕を掴み、無駄のない素早い動きで背中を相手に向けて、そのまま思い切り背負い投げをした。相手は先輩よりかなりの体重がありなのに、それをいとも簡単に投げ飛ばしてしまうなんて、なんてパワーだ。
相手は地面に豪快な音を立てて叩きつけられ、がはっと声を出してそのまま寝てしまったかのように動かなくなってしまった。
先輩がもう一人の方に目をやった。相手はぽかんと口を開けていたのをすぐに戻して先輩を睨みつけた。
「おまえ……いったい何者だ!」
相手は怒鳴りながら彼に近づく。
馨先輩は再び笑顔に戻って淡々と言った。
「僕は何者でもありません。――ただの中学生です」
私のようやく落ち着いてきていた鼓動が、馨先輩の再び発した声を聞いた途端、全速力で走っているかのようにまた速くなってしまった。
これが、好きになる、ということなのだろうか。
「あぁ、そうかい! あんたがただの中学生なら、最初からこんなことなんかしねぇよ!」
相手は拳を握り、いきなり馨先輩の腹部を殴った。流石の先輩もこれは不意打ちだったため、避けることが出来なかったようだ。
しかし先輩は痛がったり、苦しんだりはせず、さきほどと変わらない笑顔のままだった。
むしろ苦しんでいるのは逆に相手の方だった。殴った直後に相手は先輩に吹き飛ばされるように離れた。殴った拳をもう片方の手で握りながら相手は悲鳴をあげた。
「ぐぁっ! ……て、てめぇ、何しやがった!?」
「これを使っただけですよ」
先輩は右手をすっと上げた。手には少し大きい消しゴムくらいのサイズの、よくわからない道具を摘むようにもっていて、その道具からバチっと、強い電気系の音が鳴った。
「スタンガン……!」
「そうです。駄菓子屋のガチャポンの景品等によくある安物ですけどね。それを僕が改造して数倍の威力を出せるように強化したんです」
馨先輩が殴られても平気だったのは、腹に拳が当たるぎりぎりの瞬間に、相手の伸びた腕にスタンガンを一発撃ったようである。しかしスタンガンとは男子がふざけて遊んでいるのは見たことがあるが、こんな巨体をもつ相手もひるむほど強力なものなのだろうか。
相手が馨先輩に再び殴りかかろうとした時、
「何故たかが一通の手紙だけで、あなたたちはそんなにあせっているのですか?」
と馨先輩は言った。その瞬間、相手はリモコンで一時停止ボタンを押したように動きを止めた。
「あくまで僕は『この中学校に在籍している、ある生徒を捜しています』と、書いただけです。――それなのにあなた達は何故、三年生全員を教室に閉じ込めてまで、手紙の差出人を捜しているのですか?」
馨先輩はまたまた真顔に戻り、スタンガンをポケットにしまった。リンと同じぐらい表情の変化が激しいが、彼の変化はどこか演技のような、相手を挑発しているようにも見える。
相手はかなり動揺し、視線を先輩から外した。
「いいですよ。僕も事情はある程度知っていますので、殴るなり殺すなりしても結構です」
相手は動こうかどうか迷っている。Dクラスの生徒のこんな様子を見るのは初めてだ。馨先輩という人物は、彼らと――Dクラスの生徒と、どういう関係なのだろうか。
「まぁ、そんなことをもし本当にしたら、僕の携帯から、僕の知っている内容全てを教師や生徒全員にメールで送信します。殺そうとも半殺しに留めようとも、即死でさえなければ数秒で済むメールなんて、簡単に送れる。そうしたら、あなた達はもちろん、この学校中が大パニックになるでしょうね」
馨先輩は制服の内ポケットから携帯を取り出して、さっきよりも相手を見下しているような、勝ち誇った笑みを浮かべている。
「それが嫌なら三年生を全員解放し、あなたたちはあなたたちの集まりに行きなさい。今すぐに!」
馨先輩は生徒を叱る教師のように、二人に向かって怒鳴った。
相手は「畜生……」と小呟きながら倒れている仲間の頬をはたいて起こし、肩に腕をかけて立ち上がらせた。
馨先輩はここで初めて私たちの方に顔を向けて言った。
「怖かったでしょう。ごめんね。君たちは……どうやら三年生じゃないみたいだね?」
声はまたチェロの音に戻っていた。一言前に怒鳴ったとは思えないくらいに、おとなしい声だった。
「あ……」
私は答えようとしたが、上手く声が出なかった。正面から見た先輩は本当に人形のように整った顔をしている。私は彼を見つめたまま固まってしまった。熱があるんじゃないかと思うほど体は熱くなっている。
私が答えられない様子に気付き、リンがしどろもどろになりながらも、代わりに答えてくれた。
「に、二年生です! あの、えっと……、そうだ! お手洗いに行こうとしたら、その、まよっちゃって……。そしたら怖いお兄さんたちが追いかけてきて……」
すると馨先輩は「そうか、なるほど」と言い、にこっと笑顔に戻った。私はまるでインフルエンザに罹ったかのように、頭がクラッとした。
馨先輩は二人組に向き直って、再び声を上げて怒鳴りつけた。