先輩
2
いつからなのかは定かではないが、閉ざされ続けていた二年校舎の最上階に位置する四階。
生徒からは過度な期待をされ、あることないこと噂されていた扉の先も、開いてしまえば、答えは考えればすぐに思いつくほど、簡単なものだった。
四階は広い部屋ただ一つだけとなっており、教室よりも一回りぐらい大きい二十畳ほどの広さがあった。
もうすぐ切れることを警告しているかのよいにチカチカと点滅する蛍光灯に、薄明るく照らされた部屋の中は、異様な臭いが漂っていた。理科準備室のような、薬品系の臭いだ。
口元を手で押さえながら、辺りを見渡す。
入ってすぐに見えるのは、何ヶ月も掃除のされていない汚れた台所だった。そこにはビーカーや試験管が幾本も無造作に置かれていたり、割れた破片が散らばっている。その視線の先には階段があり、天井へ延びていた。四階より上の階はないはずだ。屋上に繋がっているのだろうか。
室内を見渡すと、部屋の真ん中には、見るからに高級そうな外国ブランドのソファが、同じぐらい高級そうなガラス張りのテーブルを囲うように設置されている。しかしそれらの家具が使われていた形跡はなく、傷は愚か、形も全く崩れていない。テーブルには埃が被っており、曇っていて床がぼやけて見える。
壁には、四方に並べられた額縁の中に何人もの男の顔写真が、威風堂々とした姿で納められている。額縁の下にはその男の名前が書かれていた。
扉の前に固まっていた私達は、ゆっくりと進んで、手前のソファの後ろ――部屋全体を見渡せる位置に立つ。
視線の先には、壁一面を大きくくり貫いた窓ガラスの前に、大きな教壇がある。その教壇の上にも幾つものビーカーが並んでいた。曇りガラスであるその窓からは、明け方のような明るいとも暗いとも言えない青みがかった空が広がっていた。
その空色に包まれるかのように教壇に座っている人物。
それは――。
沙耶に似た整った人形のような顔に、馨先輩に似た銀色の髪を生やした男性だった。ただ、二人よりも年齢が上であることは一目瞭然だった。だからといってそこまで歳はいっていなさそうだ。三十代後半から四十代前半だろうか。男性の年齢は見た目だけではよく分からない。
しっかりとした作りの背広を着た男は、姿を見ただけならどっしりと構え、落ち着いているように見えるが、表情は鈍感な私でもすぐに分かるくらい動揺しているようだった。
「お父さんっっっ!」
沙耶は前に乗り出して、悲鳴に似た声を発した。
そうか。この男性がさっき馨先輩の言った「死んだはずの沙耶の父」か。
「沙耶……。お前がどうしてここに……。いや、それだけじゃない。何故――」
「お久しぶりです。龍ヶ崎(りゅうがさき) 四郎(しろう)さん。いえ――校長先生」
馨先輩はいつも通りの落ち着いた口調でそう言った。
この人が沙耶の父であるのと同時に、現校長なのか……? ということは、壁に下がっている写真は歴代の校長の写真ということか。
――そう。『禁断の四階』は、校長室だったのだ。
話は単純である。この学校の地図には校長室が記されていない。何故なら地図から消されているここ二年校舎の四階が校長室だったからだ。恐らくこの部屋が地図から消されたのは、前校長が薬物中毒で亡くなったのが原因ではないだろうか。
しかし、大和田先生の話では現校長は前校長が毒殺されたことに怯え、何処かへ逃げ回っていたのではないのか? その現校長である龍ヶ崎校長が何故今ここに、怯える様子もなく平然とこの部屋にいる? それとも、わざわざ出入り口に指紋認証機を取り付けたのは、毒殺されることに怯えていたからなのか……?
「お父さん、本当に生きていたのね……。 お父さんが亡くなったと聞いた時、私は幾度も父の後を追おうとこの世から自分の存在を消そうとした。でも――お父さんに似た人、今、隣にいる彼を見て、私の心は変わったわ。彼の子供を作り、今度は私がお父さんのような優しい子に育ててあげようって。……だけど、もうその必要もないのよ。だって、本物の父がいるんですもの。私にはお父さんがいれば、他には何もいらないわ」
沙耶はまるでこの世の全ての願いが叶ったかのように喜び、華奢な足取りで父に近づき、正面から椅子に乗っかるように抱きついた。
しかし、父の反応は彼女の思っていたものとは違った。ぐいと沙耶の肩を押し、自分の体から離してしまった。
「駄目だ。沙耶……私に近づいてはいけない。私は、このまま生き続けることは出来ない! 死ぬべきなのだ。 沙耶が運命の人を見つけたのなら、私なんてもう水に流すように忘れ、彼と一緒になるのだ!」
彼女の父――龍ヶ崎校長は目頭を抑えながら立ち上がり、もう片方の手で沙耶を制しながら、再び近づこうとする彼女に連動しているかのように後ずさりをした。
「どうして!? お父さんの夢は全て叶ったじゃない! 地位もお金も手に入って、校長にもなれたのに。それなのに……どうして私から離れるの!?」
彼女の声は急変し、目の前にある希望を奪われたかのような、悲鳴が部屋中に響いた。
二人の親子の様子を、私と馨先輩は黙って見つめていた。
馨先輩は、ここに来ていったいこれからどうしようと考えているのだろう。二人の仲介役になり、父を上手く説得して和解させることが目的なのか。それとも二人に破滅を与えようとしているのか。
それよりも、私がここにいていいのかどうかが分からない。だからと言って、もう後戻りは出来なかった。
「私は父と呼ばれる様な人間ではない……。沙耶を、実の娘を、あんな目に合わせてしまった。そんなことで得た地位なんて何も嬉しくなかった! 私はあの時、東の組員に殴られていた方がお似合いだったんだ! そうしたら……こんなひどいとしか言いようのない事態にはならなかったんだ……」
「お父さんは何もしてないわ。 もしかして――お父さんは私の、あの時のことを……」
「お二人とも、落ち着いてください」
馨先輩は冷静に、且つはっきりと聞こえるように二人の会話を制した。低音が床を通して僅かに私にも伝わった。二人は体と口の動きを止め、私の隣に立つ馨先輩へ顔を向けた。
三つの人形がひとつの部屋に揃い、その瞳が向き合っている。
私はその光景に驚いて思わず後方へ足を一歩下がると、割れたガラスの破片を踏み、細かく砕けた。横にはこぼれた薬のような白い粉がついていた。
「待て。お、お前はまさか……」
「彼が――私が最初に見たとき、お父さんだと思った人よ」
「沙耶……。そうか。お前が覚えているわけないか……」
「え……?」
「僕も記憶には残っていません。一歳にもなっていない頃のことなんだから、当たり前ですけどね。……約十四年振りですね、お父さん」
馨先輩はにこっと爽やかな笑顔を龍ヶ崎校長――父へ向けた。
ということは、つまり馨先輩と沙耶は、異母兄妹ということだろうか。
馨先輩は亡くなった水商売のお店で働いていた母から、沙耶は元々龍ヶ崎校長が結婚していた奥さんから産まれたのだろう。
沙耶は呆然とした表情で二人を見比べた。