先輩
「ん〜、ちょっと違うな。例えるなら――日本人が日本語の会話を聞いたら、それは考えずとも日本語の意味で認識するだろう? じゃあもしもその会話が英語だったらどうだろう? まぁアメリカ育ちの人や専門家を除けば、その英語の会話の内容を、一度頭の中で日本語に訳すだろう? 絶対音感はその例えで言うなれば、アメリカ育ちの人だね」
なるほど。今の例えで理解できた気がする。しかし、はたして絶対音感の話を今この状況でする話なのだろうか? リンなら何も考えずにこういう状況で話してもおかしくはないが…今この話を能弁に語っていたのは馨先輩だ。確かに馨先輩にはまだ私の知らない点も多くあるが、だからと言ってここで話すこととは結びつかない。
「沙耶さん、あなたはその耳で、彼女たちの名前を知ったのでしょう?」
馨先輩は鋭いまなざしで沙耶のことを突き刺すように見た。しかし沙耶は、瞬き一つもせずに視線を返した。
「あなたの言いたいことは分かりますわ。つまり、音楽室に盗聴器を取り付けたのは私で、それを使って音楽室で練習している部員の声を聞き分けた。こう言いたいのでしょう? でも、声を聞くだけではどんな声かは判別出来ても、誰の声かということまでは分からないのではなくて?」
確かに沙耶の言うとおりだ。声を聞いたって、その人が自分の名前を「私は誰々です!」とでも言わない限り、分かるはずがない。そしてそういう場面は日常的に少ないはずだ。
馨先輩は沙耶の反論を予想していたかのように少しだけ笑った。
「簡単ですよ。ちいさんや河井さん達五人が組んだKLDというグループ。そのグループに属していた彼女らは、皆吹奏楽部に入っている。そして――部活では、かならず誰がどんな声なのか分かる時間がある」
馨先輩はピアノの鍵盤側のふたをゆっくり閉じて、沙耶に向かってまた一歩歩き出した。
「部員が集まり、副部長が部員の出席を取るときです」
確かに普通の部活なら、出席を取るときは部長が部員の名前を呼び、それに部員が「はい」と返事をする。返事をした生徒がその名前の当人であり、返事がなければその名前の人物はそこにはいないという、ごく当たり前のことだ。それを聞けば、たとえ姿が見えなくても、耳がよければその一言だけで誰がどんな声なのかを知ることが出来るのだろう。
これで盗聴器と絶対音感の話が一つに繋がった。やはり馨先輩はすごい。何の関係もなさそうな行動にも、ちゃんと意味を持っているのだ。
「始業式の日――あなたはここに来て盗聴器を仕掛けた。あなたはまず吹奏楽部全員の声と名前を知った。その次の日、この場である共通の話題をした五人の部員がいた。それが被害を受けた二人と、桃瀬さんと、ここにいるちいさんと河井さんだった」
ある話題とは馨先輩のことであり、それはあけみが私達五人をカオルラブ同盟ことKLDと名乗ることにした日なのだろう。さっきも馨先輩からKLDという単語が出てきたし、そんな細かいところまで馨先輩が情報を入手していることに、なんだか恥ずかしくなってしまい、私は赤らめた顔を下に向けた。
「あなたは、自分の敵であるターゲットを部員全員から一気に五人に絞った。その次の日、選別した五人の下駄箱に手紙を入れましたね?」
手紙というと――あの『部長と名乗る人物からの手紙』のことか。あれは、本当に部長――沙耶の書いた手紙だったのか……?
「その手紙によって五人の情報を知り、更に狙いを定めようとした。しかし手紙に書かれたアドレスにメールを送ったのは、桃瀬さん一人だけだった」
やっぱりリンも手紙を受け取っていたのか。普通ならあんな手紙に書かれたメールアドレスなど、怪しくて送ったりしないだろうが、リンなら興味を持ってすぐに送ってしまってもおかしくはない。
あの時、もっと注意して聞いてみればよかった。
「でも、あなたは一人でも連絡が取れれば充分だった。さらに桃瀬さんは素直で他人を疑ったりしない性格のため、あなたを信じきって四人に関する情報を伝えてしまった」
「ずいぶんとご存知のようですわね。まるでストーカーみたいじゃないですか」
現にストーカーであったあなたに言われたくないですよ、と馨先輩は感情を込めずに答えて沙耶に背を向けた。
「さて……ここからが問題だ。被害にあったのはまず鈴木明美さんだ。彼女は何らかの理由で北のビル近くの電柱に立っていたところを、何者かに襲われ倒れてしまい、その姿を目撃した通行人が救急車を呼んで助けてくれたらしい。彼女が襲われたほぼ同時刻に、僕は北のビルへある目的を果たすために来ていた」
窓の外はオレンジ色に染まり、室内も闇に染まっていく。オルガンや椅子の輪郭が曖昧になってきて、学ランを着ている馨先輩の姿が室内の闇に溶けていく。
「次に被害にあったのは原朋美さん。彼女は団地の前で河井さんと話していた時、急に目の前が光に包まれ、そのまま意識を失ったという。どうやらその光の正体は閃光玉らしく、その光に包まれている間に彼女はその閃光玉を放った者に毒薬を打たれた。閃光玉を放ったのは、恐らく一緒にいた美紀さんの目を塞ぐためだろう。原さんがそこに立っていた理由はというと――どうやら彼女は僕を待っていたから、とその日学校では友達に言っていたらしい。
そして三人目の被害者の桃瀬さんに関してはまだ不明。ちいさんと河井さんはご覧のとおり、今もこうして無事でいる」
馨先輩は振り返って私の方を見た。眼鏡が夕焼けを反射したのが眩しくて、手で目を覆ってしまった。
「何故桃瀬さんは殺され、河井さんとちいさんは無事なのか。そして、朋美さんと明美さん二人が襲われたのは何故か?」
「そんなことに理由などないでしょう。 理由を考えたところでどうするというのです? それで犯人を私に結びつけることなど、出来ませんわ」
馨先輩は彼女の発言を無視して続けた。
「彼女達が被害にあった理由には――僕という存在が関わっているからだ」
馨先輩と関わった生徒。確かにそれはちーちゃんとリン以外は当てはまる。
「もしかして……私たちが襲われた理由は、馨先輩に好意を抱いていたからですか……?」
緊張して裏返りそうになる声を必死に出して、私は聞いた。
「どうなんですか? 沙耶さん」
「もし、それが本当なのなら、カオルさんにこそ罪があるんじゃないのですか?」
「よくそんなことが言えますね。冗談でも人に罪を押し付けるのは辞めていただきたい。彼女たちが僕に好意を抱いていたことをあなたは知っていて、あなたがストーカーに扮して彼女たち五人の後をつけ、特に僕に近付きそうな二人を先に襲っていったのでしょう?」
これで辻褄があった。
沙耶は、馨先輩に近付こうとしていたKLDの生徒を、黒い衣に身を隠して襲っていったのだ。
しかし、何故あんなにも馨先輩に近付いていた私は襲われなかったのだろうか。
そして、リンについてはどうなる? どうして二人は被害にはあったが命までは奪われていないのに、馨先輩にほとんど近付いていなかったリンは殺されてしまったのだろうか。
「……よくそんな細かいところまで分かりましたわね。ええ、もういいわ。認めましょう。私が黒装束のストーカーの正体であり、彼女達を襲った女よ」