先輩
病院で検査をしなくても、リンがもう助からないことは分かってる。
心臓が止まっていても、場合によっては助かる可能性もあるのだろうが、リンからは生きているオーラが全く感じられなかった。体だけでなく、心まで冷たくなっていたのだ。
音楽室内には再び沈黙が訪れ、窓の外から入る風に乗って、テニス部のボールをラケットで飛ばす音や、野球部の掛け声や、サッカー部の顧問の怒鳴り声が耳に入ってくる。
その声や音の発している生徒たちには、部活という目的がある。それが将来にどう繋がろうと繋がらなかろうと、そんなことは関係なく、今この時の目的を果たすために彼ら彼女らは汗水垂らして動いているのだ。
ならば――今ここにいる私の目的は何なのか。
確かに馨先輩の言うとおり、どんなにリンの死に顔を見つめたって、リンが喜んでくれるとは思えなかった。だからといって、この場に残って私は何をすればいいんだ。
それに答えるかのように、馨先輩は優しい口調で私に言い聞かせた。
「ちいさんから、美紀さんの気持ちは少し聞いた。桃瀬さんと僕を想ってくれる気持ちがあるのなら、僕の傍にいてほしい。僕の過去と、桃瀬さんを死に追いやった彼女――沙耶の気持ちを知ることができると思うから」
私はちーちゃんが馨先輩に何を話したのかをすごく気にしつつも、黙って頷き、ここへ残る意味を手に入れた。
「ここらへんで終わりにしましょう。龍ヶ崎沙耶さん」
再び馨先輩は沙耶を呼んだ。沙耶はゆっくりと、わざと遅くしているかのようにこちらに振り返った。
「これ以上被害者を増やしたら、どうなるのか分かっていますね?」
光を吸収する漆黒の学ランと、もうすぐ沈み始めようとする太陽の光を反射する銀色の髪をした馨先輩は、沙耶の前に近付いていった。
「何を言っているのです? カオルさん。私は、美紀さんにはもちろん、林檎さんにも危害は何も加えていないのですよ? 濡れ衣を着せるのは辞めてください」
「この期に及んでまだ惚けますか。往生際が悪い」
二人の、いや――二つの人形が、対峙している。
ガラスの瞳に、互いのビスクドールのように滑らかな顔が映りこむ。
私は――二人とは明らかに違う。ただの人間だ。どこにでもいる、人形に例えるなら工場で量産されている塩ビ人形のようなものでしかない。
そんな私が、この二人と対等に並べるはずがない。
ここまできても、結局私は単なる傍観者でしかないのだ。
二人の間に入っていない私のことを気にしたのか、馨先輩はもう一度私に向かって告げた。
「これから彼女と話す内容は、決しておもしろい話でもためになる話でもない。むしろ、胸が締め付けられるような辛い話になるかもしれない。――それでも僕は君にも聞いて欲しいんだ。お願いだ」
馨先輩は私に向かって頭を下げた。それなのに私は、
「……彼女がリンを殺したんです。本人がなんと言おうと、それが事実であることくらい私にだって分かります。だからもういいんです。これで終わりでいいんです。私はこれからずっと、一人のままなんです……」
言おうともしていないことが勝手に口から流れていく。内容は本心なのだが、それを馨先輩に言っても何にもならない。死んだ人を生き返らせることなんて、人間には不可能だ。それなのに、それなのに……。
私が肩を震わせながらしゃべっていると、馨先輩は沙耶の前から離れて私の前に立ち、右手を掴み、ぐいと自分の元へ体ごと引っ張った。すごい力だった。
そして私の体をぎゅっと強く抱きながら、耳元で言ったのであった。
「――終わりなんてこの世にない。そして君は一人じゃない。桃瀬さんを……僕を、信じてくれ!」
「それでも……リンはもういないじゃないですか。死んだら終わりじゃないんですか? 死んでしまった人のことを、どう信じろって言うんですか!」
私は馨先輩の体を突き放し、思い切り泣き叫んだ。防音の部屋に微かに残響が残った。
――何を私は言っているんだ。
馨先輩に体を包まれたとき、私はもちろん嬉しかったし、このままずっと抱かれていたいとも思った。でも。
――愛なんて人の本能でしかないのよ。
――ただ一つの目的――互いの体を求めることだけなのよ。
沙耶が語った言葉が頭を過ぎり、それが自分にも当てはまってしまうんじゃないかと思い、怖くなったのだ。
リンが亡くなってしまった哀しみを、馨先輩に抱かれた喜びで忘れてはいけない。
私は自分にそう言い聞かせた。
馨先輩は過呼吸になりそうなぐらい息を荒げて涙を流している私を、哀れんでいるような表情でじっと見詰めている。
「私にとって、リンは一番の友達だったんです。他の友達よりも――いいえ、家族よりも大事な子だった。リンが学校を休んだ日は心配で心配で、お昼休みに学校を抜け出してリンの家の家に行ったことだってありました。リンも同じように、私のことを心配してくれていたって、リンのお母さんが言ってました。
家族に言えないことだって、リンには平気で話せたんです。リンがいない生活なんて想像できなかった。絶対にありえないと思ってた。このまま中学校を卒業しても、高校や大学を出て大人になっても、ずっと二人で仲良くいられると思ってた。それなのに、どうして……? どうしてこんなことになってしまったの……?」
三度沈黙が訪れた。私のすすり泣く声だけが聞こえてくる。
その沈黙を破ったのは、戻ってきたちーちゃんだった。
リンはもう抱きかかえられていなく、変わりにノートのような冊子を一冊腕に挟んでいた。
「リンは、どうだったの……?」
答えは分かっているが、奇跡を望んで聞いてみた。内心はまだ、生き返るという希望を持っているのだろう。
「とりあえず、保健室の先生がいたから診てもらった。けど……脈は止まっているみたい。すぐにリンリンの親と救急車を呼んで、それで今運ばれていった」
ちーちゃんは平坦に感情を籠めずにそう言った。リンの母が、必死にリンに向かって呼びかける姿を不謹慎にも想像してしまった。
「傷や出血がないことから、毒薬を飲まされた可能性が高いらしい。苦しんだ様子もなかったようだから、かなりの即効性がある」
勝山先輩の父、馨先輩の母、校長先生の次に毒殺されるのがリンだったなんて……予想できるわけがなかった。
「美紀さん、落ち着いて。……もう大丈夫だ。これ以上――被害者は現れない」
馨先輩が死体のように冷たくなった私の腕をぎゅっと握る。本来なら大変嬉しいのだろうが、そんな感情も忘れてしまったかのように何も感じることが出来なかった。
私が泣き止むと、馨先輩が再び沙耶が立つ前に移動して、
「あなたは、何の薬を使ったのですか?」
「そんなこと、あなたに関係ないでしょう?」
彼女は微かに笑みを浮かべている。どうして彼女はこういう時に笑えるんだ。生まれて初めて殺意というものが私の中に湧いた。
「あなたは……何人殺したのですか?」
「何度も言わせないでください。私は誰一人も殺してなどいませんわ」
「これは失礼。この事は既に僕が調べてありました」
馨先輩がそう言い終わったほんの一瞬だけ、沙耶の顔が歪んだ。