先輩
いや――騙されてはいけない。たとえ今話していることが全て本当だったとしても、彼女はリンを殺したのだ。さらにそのことを反省している様子はない。彼女が今語っているのは、同情させる言い訳に過ぎない。ビスクドールのような美しい顔が、悲愴な表情を作るから同情してしまうのだ。
「それから何年も経って、私が小学校高学年に上がった頃……。成長期を迎えて少しずつ大人に近づいていた私に向かって、この世の男達はみんな寄ってたかって綺麗だ、美しい、と言ってきた。そんなことを言われても、私は嬉しくも何ともなかった。見ず知らずの汚らわしい男になんて、言われたくなかった。同じ言葉を父が言ってくれた時は、涙が出るほど嬉しかったけれど。
――そんな父も今はもう、この世から去ってしまった」
彼女の瞳から一滴の雫が頬を伝って流れ落ちた。これが演技とは思えない。本当に父のことを想って泣いているのだろうか……?
「あなたも知っている彼、銀色の髪の少年は――父に似ているわ。容姿も、声や話し方まで……」
「……どうしてあなたが、馨先輩のことを知っているんですか……?」
私の質問に彼女は答えず、白くて細い指で涙を払い、潤んだ瞳を私の目に向けた。悲しそうな表情をしていても、彼女は本当に美しい。完璧と言っていいほど左右対称の整った顔をしている。
こんなに綺麗な人が、人殺しだなんて。憎む気持ちもあるが、少しだけ悲しい気持ちもあった。
「美紀さん、あなたは――」
「カオルさんのことが好きなのですか?」
突然の質問に私は戸惑った。
答えは明らかだ。胸を張ってはっきりと答えることができる。
だが、何故だか声を出そうと思っても口が開かない。鼓動が急速に高まっていく。面と向かって話している相手は馨先輩ではないのに、どうしてこんなに緊張しているんだ?
「好きなんでしょう? 答えなくても分かっているわ。林檎から聞いていましたもの」
彼女は一歩一歩私に近づいて来る。足音が全く聞こえない。
「あなたのことは、極力傷つけたくなかったのですが……。こうなってしまった以上、已むを得ません」
彼女は制服のポケットから、黒い何かを取り出した。
それは――拳銃だった。
本物の拳銃を間近で見るのは初めてだったが、おもちゃ屋さんに売っているようなエアーガンと、ほとんど同じものに見えた。
顔に銃口を向けられても、私はなんとも思わなかった。
このまま――彼女に殺されてもかまわないと思った。
恐怖は感じなかった。リンとこのまま一緒に死ねるのなら、それでもいいと思えた。
もう心残りはない。私には何もかもなくなってしまった。
リンの笑顔と、馨先輩の笑顔が脳裏に浮かび上がった。
しかし、もうリンの笑顔は一生見ることが出来ない。リンはもう、笑わないのだ。
馨先輩にも、いつまた会えるか分からない。いや、このまま一生会えない可能性もあるのだ。
そんな世界、生きていたって何の意味もない。
まだ死んだほうがマシかもしれない。人間が死にたいと思うのは、生きているのがつらいからだ。
それでも死にたくないという気持ちが少しでもあるのは、死ぬことが怖いと思うからだ。
死ぬことが怖いと思うのは、死んだらどうなるか分からないからだ。
今以上に辛い地獄かもしれないし、何もかも夢のような天国かもしれない。
それか――何もないのかもしれない。
それでも生きている今この時は、つらいことしかない。
だったら。
死んだ先がどうなっているのか、確かめに行ってもいいんじゃないか。
自分で死ぬのは怖いけれど、相手はわざわざ人生を台無しにしてまで、殺そうとしてくれているのだ。
ありがたく、彼女の殺意を受け取って、私は死後の世界へと渡ってみようか。
そんな考えが頭の中で蠢いていたその時。
バン、と大きな音を立てて音楽室の扉が豪快に開かれる音がした。
振り返り、その音の発信源である扉へと顔を向ける。
扉の前には、窓から差し込む光がスポットライトのように二人の生徒を照らしていた。
「どうして、あなたが…?」
「お久しぶりです。……龍ヶ崎 沙耶さん」
沙耶へ視線を向けると、彼女は目を見開き、まるで予想していなかった人物がここに来てしまったかのような驚愕の表情をしていた。握り締めていた拳銃はすぐに懐に仕舞い、両手で口を塞いでいる。
彼女が驚くのも無理はない。私自身も、今ここに彼が現れたのが夢、もしくは既に私は撃ち殺され、死後の世界に来てしまっているかのように思っている。
チェロのように低い音だがしっかりと発音され、尚且つ透き通っている声を発するのは、あの人ただ一人しかいない。
「どうして、私は山田組長と約束をしたはずなのに……それに、何故私の名前を知っているの……?」
私は再び扉の方に視線を合わせた。そこには、太陽の光を反射する銀髪に、ふちのない眼鏡の奥にガラスのように透き通った瞳をした――。
馨先輩が立っていた。
馨先輩の隣には、ちーちゃんが馨先輩の影に隠れて立っていた。
どうして二人が一緒にいるかなどと考える前に、私は馨先輩と再会できたことに、感激して涙が出そうなぐらいの喜びと安心を感じることができた。
「ひどいことをしたものだ。まだ他の二人を殺さなかったのは許せても、桃瀬さんのような何の罪もない人にこんな仕打ちをするなんて……ひどいにも程があります」
「わ、私は、あなたを……」
沙耶がさっきまでの私のことを見下しているような、余裕たっぷりの態度から打って変わって、動揺して声をつまらせている。これが馨先輩の力なのか。人殺し相手でも馨先輩は今まで通りの落ち着いた態度で、沙耶を攻め続ける。
「あなたが捜していたのは僕なんかじゃない。あなたの父親でしょう? いくら僕があなたの父に似ているといっても、僕なんかにあなたの父の役割が務まるわけがない!」
馨先輩は声を荒げて子供を叱る父親のように怒鳴った。声が馨先輩の後ろに位置する廊下に響いた。
沙耶は下を向き、黙り込んでしまった。
泣いているのだろうか。沈黙が続いた。決してそれは、時間的にはほんの数秒のことだったのだろうが、私の体内時計はその瞬間だけ狂っていた。
沙耶は顔を下げたまま、くるりと馨先輩に背を向けたとき、馨先輩の声によってその沈黙が破られた。
「河井さん。桃瀬さんをちいさんに保健室まで運んでもらう。だが――君は僕と一緒にここに残っていて欲しい」
「そんな……。待ってください。リンは、私一人で今から病院まで運んでいきます!」
「駄目だ。今はきっとまだはっきり認識してないから大丈夫だろうが、桃瀬さんの死に直面した瞬間……キミの精神が持たない!」
馨先輩は真剣な表情で私に向かって言う。
「でも……!」
「桃瀬さんを想う気持ちがあるなら、桃瀬さんをこのままにしておきたくないと思うなら……この場に残って欲しい。親友である美紀さんに、桃瀬さんの生死をはっきりと確かめるのは、荷が重過ぎる」
馨先輩はそう言ってリンに近づき、寝袋のようなものでリンを包んだ。
私は――。
馨先輩の言うことに素直に従い、包まれたリンがちーちゃんに渡され、音楽室の外へと運ばれていく姿をじっと見詰めていた。