先輩
3
「どうして……リンを殺したの」
私は震える声で沙耶の背に向かって聞いた。彼女は私の問いに答えるように、腰の辺りまで伸びる黒髪を靡かせて振り向いた。表情は相変わらず全く読めない。無表情にも見えるし、笑っているのか、悲しんでいるかのようにも見える。
私が抱えているリンに傷や出血の後はなく、服もこの前のときと違って、裂かれていたりはだけてなどはいなかった。表情にも苦しんだような様子はなく、瞼と口をしっかり閉じていて、静かに熟睡しているのと何ら変わりがない。
しかし、リンがもう一度目覚めることはないのだ。
心臓は完全に静止している。
ここで立ち止まっていないで、今すぐ助けを呼ぶべきだ。
私がリンを床に寝かせて立ち上がろうと足に力を入れたとき、後頭部に何かが勢いよくぶつかり、私はリンの上に十字の形に重なって倒れてしまった。額が思い切り床に叩きつけられた。偏頭痛のような痛みが頭に走った。
首を横に曲げて沙耶の立っている位置に目を向ける。どうやら彼女に後頭部を蹴られたようだった。彼女の細長い片足が宙に浮いていた。そしてその足は重力に従いそのまま私の後頭部に着地した。
ぎりぎりと音を立てているかのように踏みつけられ、鼻の骨が折れそうになる。古くなった木の床の臭いが鼻孔を刺激する。本来なら強烈な痛みや堪えきれない怒りが現れる状況なのだろうが、リンが死んでしまったことのショックが大きすぎて、そんな感覚や神経は機能しなくなっていた。
沙耶は再び「うふふ」と囁くように笑っていた。ひとりの少女の遺体を目の前にして笑えるなんて、神経がおかしい。それを言うなら今の私の神経も充分おかしいのだが。
痛みが首にまで伝わってきたあたりで沙耶は私の頭から足を上げた。私は両手をついて体を起こし、沙耶と対峙するように体を向ける。彼女は相変わらず薄っすらと笑みを浮かべたまま私の眼を見た。馨先輩とは違い、その瞳は透き通っているが、人工的に輝きを取り入れたガラスのような輝きを放っていた。
「私は……殺してなどいませんわ」
彼女は淡々と語る。
「林檎は――自ら死を望んだのです。そんな林檎に私は、生きていることの無意味さと、死による新たな始まりを教えてあげただけですわ。彼女が望んでいたのなら、私がどんな手を使って彼女を眠らせても、私に罪はないのではないですか?」
リンはきっと、毒殺されたんだ。勝山先輩の父や、馨先輩の母、元校長がそうだったように。
そんな物をリンが自分で飲むわけがない。彼女に無理やり飲まされたか、だまされて思わず飲んでしまったんだ。
「林檎は私のことを愛してくれてました。一生このまま一緒にいたいとも言っていました。私たちは――相思相愛だったのです。林檎が死を選んだのは、お互いの愛を伝えるために過ぎません」
「お互いに愛を伝えるって……それでもあなたは生きてるじゃないですか! どうしてリンだけが、リンだけが……!」
「落ち着いてください。あなたの言うとおりですわ。これで私も死んでいたら、今しゃべっている私は幽霊になってしまいますもの」
「ふざけないで!」
今更になって怒りが腹の底から込み上げてきた。
相思相愛だった? それなら何故リンを殺したんだ。彼女の言う愛など、言い訳でしかない。林檎がそんな理由で死ぬことを望むわけがない。たとえお互いに愛し合っていて、心中したとしても、その先で相手と一緒になれるとは限らない。それこそ死んでみないと分からないことだ。
死んでみないと分からない……?
まさか。
リンは、それを確かめるために死んだのか……?
「失礼――。そう、確かに私は現に生きています。そして、本来なら林檎と一緒に私も死ぬべきであることも承知していますわ。でも――」
彼女は私を睨みつけながら、後ずさりしてピアノがある教壇のほうへと足を進めていく。
「死んだら一緒になれるなんて――絶対にあり得ないのよ」
「あなたは、何を言って――」
「死んだら終わりよ。それ以上もその先にも、何もない。天国も地獄も所詮は人の作り出したものでしょう? 死ぬことによって、その人の時が止まるんですもの。死体が焼かれようと腐ろうとも関係ない。生命や魂などそれもまた生きている者の一方的な考えであって、ただの想像であり空想に過ぎない。……くだらないわ」
「そうだと分かっているのに、何故リンを殺したの? あなたは……リンのことを愛していたんじゃないんですか?」
目尻から涙がぼろぼろと流れていく。それは悲しいから泣いているのか、悔しいから泣いているのか、どちらなのかは分からなかった。
「……どうしてあなたたちは愛などという、あってないようなものを、すぐに信じるのかしら。愛なんて、人の本能でしかないのよ。その相手が男だろうと女だろうと関係ない。林檎に対する私の愛も、私に対する林檎の愛も、ただ一つの目的――互いの体を求めることだけなのよ。そんなもののために生死を決めるなど、馬鹿げているわ」
沙耶は私から目を逸らし、吐き捨てるように言った。表情から笑みは消えた。
ひどい――。
ひどすぎると思った。話の内容だけではない。沙耶という存在がひどいのだ。私は腕に力を籠め、拳を握った。しかしここで彼女を殴ったとしても、リンは報われないとすぐに判断し、力をそっと抜いていった。
沙耶はピアノの前で足を止め、ピアノの蓋に手をつけた。
「愛なんて……それを求める人たちなんて……そんな人たち猿と同然だわ! 相手を求めることなど、子供を産むため、子孫を残すためだけなのに――それをかっこつけて愛だの情だの呼んでいる。本当に馬鹿馬鹿しい。聞くだけで吐き気がするわ!」
彼女は大声で自分の感情を吐き出すかのように言った。防音の部屋だから、声はすぐに吸収されて消えてしまう。彼女のヒステリックな叫びからは、悲しみと哀しみのような気持ちが伝わった。
体温を上げるほど籠められた怒りが、急に冷めた気がした。
彼女にも、何かつらい理由があるのかもしれない。
それに答えるかのように彼女は荒げていた声色を整えて、
「それでも――それでも、父だけは違った」
沙耶は急に顔を上げた。目を輝かせながら自然な笑顔を私に向けた。
――美しい。
何故だかそう思ってしまい、一瞬だけ見惚れてしまった。
相手は親友を殺した殺人鬼なのに。
「私の父は……私を男手一つで育ててくれた。私がまだ幼い頃、私の家は貧乏で、いつも借金取りが家に来て、そのたびに父は床に顔をべったりつけて、暴力団相手に謝ってた。蹴られても、罵声を浴びせられても、必死に謝り続けてた。
そんな状況でも、私の前ではいつも笑ってくれていた。『沙耶、ごめんね。でもパパは頑張るよ。だからそんな悲しそうな顔をしないで』そんなことを何度も言いながら、私を抱きしめてくれた」
さっきまであんなひどい話をしていた相手とは思えなかった。彼女の今の表情は、まるで聖女のようだった。