先輩
しかし、場所は学校としか知らされていない。「来れば分かる」というようなことを言っていたが……こんな状況になってしまった今では、それもあてにならない。例えその場に辿り着けたとしても、相手は男だ。女である私に何が出来るだろうか。相当軟弱な相手でない限り、助けに来た私までも被害者になってしまうだろう。そもそも軟弱な相手だったら、最初からこんなことなどしないはずだ。
とりあえず、まずはリンの安否を確認したい。その先どうするかは現場に着いてみないからではないと考えられなかった。
――これ以上リンが被害を受けるよりは、私が被害にあった方が百倍マシだ。
校門前に着いた。普段ちんたらと歩いて通っている距離とは思えないぐらい早く到着できた。この調子ならリンを抱えて逃げる体力も充分に残っている。
校門には鍵が閉まっていたため、横のフェンスをよじ登り、泥棒のように音を立てずに学校の敷地内へと侵入した。しかしわざわざこんなことをしなくても、図書館が一般の人にも開放をしているため、休日でも正門なら開いているはずなのだ。あまりに急いでいたので、そこまで頭が回らなかった。
どこにいるのか検討もつかないので、一番慣れ親しんでいる二年校舎へと向かった。
視界の端からテニス部や野球部の生徒が一生懸命練習している姿が見える。――彼らは知らないのだ。今、この学校のどこかで一人の少女に大変な事態が起きていることを。
昇降口で靴を脱ぎ捨て、かかとを潰して上履きに履き替える。無駄なことだと分かっているのに、周りをきょろきょろと見回して、リンが何処にいるのかを必死で突き止めようとする。
その時、どこかからピアノの音が聴こえた。
音楽室からか? だけど、今日は吹奏楽部の活動はないはずだ。ならば――。
弾いているのは誰だ?
ゆったりとしたテンポに、少女が歌っているかのように流れる旋律。この曲は……。
ベートーヴェン作曲、ピアノソナタ「悲愴」その第二楽章。
この曲を、ピアノという楽器をこんなにも美しく弾く人など、私の知っている中ではリンしかいない。
細かいことは考えずに、わたしはそのメロディーに操られているかのように階段を昇っていき、音楽室へと向かった。
三階に着いたところで荒い呼吸を無理やりに整え、肺に溜めた息をゆっくり外へ吐き出す。
扉に取り付けられているガラス窓から覗けば中に入らなくても誰がそこにいるのかぐらいは分かるが、私はあえて下を向き、耳だけで中の様子を伺った。
第二楽章 変イ長調――Adagio cantabile――。
曲は中間部に入り、苦悩に耐えているかのような、切ない旋律が耳に入ってくる。
――リンは、ここにいる。
私はキッと素早く顔を上げ、引き戸の音楽室の扉を思い切り開けた。
そこには――二人の女生徒がいた。
一人の女生徒は、ぐったりとした姿で、机代わりに置かれているオルガンの上に横たわっていた。それは紛れもなく、リンだった。
そして、部屋の奥に堂々と置かれた漆黒のグランドピアノ――それを弾いているもう一人の女生徒。
整った位置に配置されたパーツ。雪のように白く塗られたフェイス。傷の全く入っていない煌びやかなガラスの瞳。
――人形だ。
あの日、始業式の日に音楽室にいた――。
人形のような女生徒。
「うふふふふ……」
女は演奏を中断し、こちらに顔を向けて静かに笑った。しかしその笑顔に喜怒哀楽は全くない。
「お久しぶりですわね。――河井美紀さん」
空洞が開いた物に、木管楽器のように息を吹いて発声されたかのような、造られた声。
「いつだったかしら。最後にあなたと言葉を交わしたのは……。まぁ、あなたは覚えていないでしょうが」
体が動かない。扉が閉まり、古くなった二本の蛍光灯に照らされた彼女は、この世の者――いや、物とは思えなかった。
容姿も表情も声も、生きていないのだ。まるで、現実というものを忘れてしまったかのように。
オルガンの上に載せられたままのリンは、びくりとも動かない。立ち位置の関係で顔が髪で隠れてしまっていて、表情を確認することが出来ない。
女はしゃべり続ける。私はリンを助けにきたつもりが身動きも出来ないまま、完全に彼女のペースに乗せられてしまった。
「自己紹介をしましょう。私はこの中学校の第三学年で吹奏楽部の部長――の称号をもらっている、龍ヶ崎(りゅうがさき) 沙耶(さや)と申します。桃瀬さんの……恋人です」
部長? 部長は確か、病院に入院中ではなかったのか。それに恋人って……二人は女同士じゃないか。
「あら? 信じられませんか? でも……これが真実なんです。入院なんて最初からしていませんのよ。それと――不思議に思っているようですが、同性愛は可笑しなことではありません。私はともかく、林檎さんは両性愛者(バイセクシャル)なんです」
彼女は私の心を読んでいるかのように疑問に答えた。
「もしかして……じゃあ、あの手紙も……」
私はようやく声を出すことが出来た。
「ええ。そうよ。内容はもう私も覚えてないぐらい適当な内容でしたが、あの手紙に書かれた文字も、そこに書かれたメールアドレスも、私のものですわ」
そんな事を聞いている暇はない。今はまず、リンを助けなければ。
私は彼女の不意をつくように、リンが横たわっているオルガンに向かっていきなり走り、ぐったりとしたリンの体を抱き起こした。沙耶と名乗る女は顔をこちらへ向けるだけで、その場を動こうとはしなかった。
長髪で隠れたリンの頭をゆっくりと持ち上げ、顔が確認できるように髪を左右に分けた。
リンの肌は――血が止まったかのように青白かった。
瞼はしっかりと閉じられていた。目頭から頬にかけて、涙が零れて乾いた後があった。
私はこの前の図書館書庫のときと同じように「リン、リン」と、何度も呼びかける。しかし、全く反応はない。
リンをオルガンの上から下ろし、椅子に自分の体を座らせてリンを抱きかかえる。抱えた方の逆の手で頬にそっと触れたが、リンの頬は氷のように冷たかった。
そんな――。
「もう手遅れよ。……諦めなさい」
人形のような女生徒――沙耶はピアノの方へ体を翻し、吐き捨てるようにそう告げた。
まさか――。
リンの胸に手を置く。
目を閉じ、神経を右手だけに集中する。
「………」
聞こえたのは――私の手に流れる脈拍だけだった。
リンの胸からは、何も聞こえなかった。
それはもう林檎という名前の、人のカタチをした人形でしかなかった。
桃瀬林檎は十三歳という若さで、この世を去ってしまった。
今までの恐怖とは計り知れないぐらい大きくて鋭いナイフのような衝撃が、心の奥深くまで突き刺さった。