先輩
おじいちゃんがこんな話をしてくれるとは思わなかった。説教といえば説教なのだろうが、今の私にとってはすごくありがたい言葉に思えた。
「だから今はいっぱい悩みなさい。悩むことは良いことなんだ。悩んでも悩んでも分からないときは、じいちゃんに聞いてくれれば相談に乗ってあげるから。じいちゃんじゃなくてもいい。ばあちゃんやお母さんお父さんも話を聞いてくれるよ。家族はみんな、美紀ちゃんの味方。安心していいんだよ」
お爺ちゃんは恵比寿様のように目を細めて微笑んだ。そのままゆっくりと間接をひとつずつ曲げているかのようにして立ち上がり、「じゃあおじいちゃんは散歩に行ってくるよ」と言って和室から去っていった。
おじいちゃんの言葉のおかげで、私の精神はかなり安心した。
中学生はよく悩む――。確かにドラマでもそういうシーンはよく見かける。だから私のように悩むのは決して珍しいことではなく、むしろ一般的なのかもしれない。
いわゆる、思春期というやつなのだろう。
私が悩んでいたように、リンも、馨先輩も、色々と悩みを抱えているのかもしれない。表面上は普通を装っていても、心の中は私以上に悩んでいる可能性もあるはずだ。
まぁ――それを理由に学校を何日も連続で休んだりはしていないが……。
勉強を一通り終えたあたりで母が買い物から帰ってきて、おいしいパン屋さんで買ってきてくれたメロンパンをおやつに食べた。私の顔色が起きたばかりのときよりも良くなっていたことに気付いたのか、母はほっと肩の力が抜けたような顔をしていた。
おじいちゃんが珍しくあんな話をしてくれたのは、どうやら事前に母が私を慰めるように、お願いしていたからだったようだ。はっきりと言ってはいなかったが、おじいちゃんも母同様に、何日も学校を休んで部屋から出ない私のことを相当心配してくれていたらしい。
もっと、御礼を言っておけばよかった。散歩から帰ってきたらしっかり言おうと心に誓った。
おやつのパンを食べ終えて適当に雑誌を読んでいると、いつの間にか時計は四時半を指していた。私は急いで支度を整えた。
髪が乱れていないか心配だったので、トイレを済ましたついでにもう一度洗面所に行って自分の顔を見ると、朝とは裏腹に、自分でも分かるくらい表情が明るくなっていた。
朝は血圧が低かった所為もあるが、顔色も良くなっていた。いつもの自分に戻れた気がして、すっかり調子が良くなった。
携帯と財布をポーチに入れながら玄関で靴を履き、ばたばたと家を出た。3日ぶりに出た外の空気は透き通っていて、すーっと肺の奥にまで入っていくのを感じられた。
キキはまだどこかへ行ってしまったまま、帰ってきていないようだった。
携帯の背面ディスプレイにある時計を見ると、五時十分前だったので、鞄にしまわないで手に持ったまま早歩きで向かった。
すると、家から十五メートルほど歩いた先の信号に出たあたりで、手に握ったままの携帯が音楽を流しながら震えた。振動が手に直接伝わってきたのですぐに気付けた。
私の携帯は、メール着信の時は音楽を設定していない。電話の着信の時にだけ、吹奏楽部のコンクールの今年の課題曲が流れる設定にしてある。――ということは、誰かから電話が掛かってきたということだ。
信号が青に変わるのを待ちながら携帯を開くと、画面には「桃瀬 林檎」の文字が映っていた。
リンから電話? 早く着きすぎて待ちきれずに掛けてきたのか。それともまた集合場所が変わったのだろうか。通話ボタンを押し、受話部分を耳に当てた。
「もしもし……?」
「………………」
声がしない。私が電話に出たこと気付いていないのだろうか?
もしもし? リン? どうしたの? ――何度聞いても返事は何も聞こえない。聞こえているのかすらも分からない。リンの方が操作を誤って通話している状態になっているのか。しかしそれだったら全く音がしないなんてことはない。周りの音やリンとリンの彼氏の声が聞こえてもいいはずだ
このままじゃ埒が明かないと思い、携帯を耳から離し、通話を切断して私の方から掛け直そうとした時――。
「きゃああああああああああああ!」
甲高い悲鳴がスピーカーから鳴り響いた。耳から離していたのにその声は鼓膜まで響いてきた。音が割れてスピーカーからビリビリという雑音が悲鳴に混じって聴こえた。
急いで携帯を頬につけ、何があったのか聞こうとしたが、ツーツーという音しか聞こえなくなり、通話は切れてしまっていた。
すぐに掛けなおしてみたが、何回掛けても通話はすぐに切断された。電話は無理だと思い、メールで聞こうとしたタイミングで、リンの方からメールが届いた。
その内容を読んだ途端に忘れようとしていた記憶が甦り、携帯を持つ手が震え、全身に寒気がよぎった。
「みーちゃん がっこう はやくきて はやく」
やはり思っていたとおり、リンの彼氏は悪人だったのだ。あんな純粋な女の子を図書館の書庫で強引に犯し、そんなことを平気で繰り返そうとしている。
最初の時はリンが同意の上で行っていたようだからまだ許せても、今回は悲鳴をあげたり、こんなSOSメールまで送ってきているのだ。相手は恋人と偽って、実際は体を求めるためだけにリンに近づいたのだろう。
しかし――私の通う中学校に、ここまでひどいことをする男子がいるだろうか?
CクラスやDクラスの生徒ならおかしくはない。しかしリンがそのような連中と付き合うとは思えない。――それ以前に昔から、不良生徒は怖い、かっこよくないと二人で話していたはずだ。
それか、相手は外部の人間だというのか。
もしくは最近ニュースでよく見る女学生を狙った犯行か。
――待て。
それは既に起きている。
女子中学生を狙うストーカー。
――大和田先生?
再び頭の奥に仕舞いこんでいた記憶が掘り返され、脳内にその時の光景が反復される。
リンはストーカーに狙われていたのだ。
私だって教室で先生に呼ばれたときも、団地の前で座りこんでしまっていたときも、逃げていなかったら何をされていたか分からない。
そしてリンは今、逃げられない状況に追い詰められている。
リンが危ない!
私はリンからいつ連絡が来ても大丈夫なように、携帯を握り締めたまま学校へ向かって全力で走った。久しぶりに足を動かした所為か、筋肉に痛みが広がった。
走るのが得意だから――と言うのもあるかもしれないが、体育は走る競技や長距離マラソンだけ好きだ。もちろん走れば走っただけ疲れるが、走り終わった時にだけ味わえる達成感や開放感がある。それを感じられるから長時間走っても苦にならないのだ。
大袈裟に言えば、走ることによって私と言う命が地球に存在していることを確認できる。大地を勢いよく駆け抜けることで、私がこの地球に生きているということを実感できる気がするのだ。
だが――今回はそんな達成感があるとは絶対に思えなかった。
まだ日は落ちていなく、主婦や子供が周りにいたので団地を思い切り突っ切って行く。公園で遊んでいた子供達が勢いよく駆けていく私の姿を驚いてじっと向ける視線を背後に感じる。そんなことお構いなしに、私は学校へ向かって風を切るように走る。