先輩
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女は落とした書類を拾わずに、山田の眠るベッドに向かって走ってきた。
馨は女の姿を目で追う。女は、山田様、山田様と連呼しながら呼びかける。ひどく動揺しているようである。もちろん山田からの返事はない。
「……あなたが、殺したのですね」
「殺人に使えそうな道具を持ってないことぐらい、見て分かりませんか?」
馨は立ち上がり、降参しているかのように両手を上に挙げてひらひらと動かした。
「ふざけないでください。偶々あなたが入ってきたときに、山田さんが亡くなられた、とでもおっしゃるのですか!」
「その通りです――としか言えませんよ。事実なんですから」
「証拠を見せてください」
女は少し落ち着いたのか、ベッドの乱れている掛け布団をきちんと直し、脈を確認した後、山田の顔にそっとタオルを載せた。
「彼は血を流していますか? 部屋から悲鳴や叫び声は聞こえましたか? ……その答えが証拠です」
「血を流さなくても、相手を黙らせてでも殺せる方法はいくらでもあります」
「そうなんですか! そんな方法があるなんて、初耳です!」
馨は両手を頭の上まで高く上げて大袈裟に驚いたように見せ、すぐに腕を降ろして真顔に戻り、女に言った。
「確かに――彼を殺害する動機は僕にもあるかもしれません。何しろ、彼に肉親を殺されたのですからね。憎んでいたとしてもおかしくはない。――だけど、その程度の理由だったら誰にだってあるはずです。憎んだだけで人を殺せるとしたら、彼のような人ならそれこそ何百回と殺されているはずでしょう。僕だって、今頃誰かに殺されているはずだ。濡れ衣をかぶせられたら困りますね。僕にはちゃんと目的があるというのに、こんなところでゆっくりしている暇なんてないんです」
「ふざけるのもいい加減にしてください!」
女の怒鳴り声が部屋中に響いた。残響が重なり、気持ち悪い不協和音となって残った。
「論より証拠と言うべきですかね。彼はさきほど、ここに置かれていた錠剤を二粒飲み込みました」
馨が薬の置かれたアルミ製のキャスターつき三段テーブルを指差した。そこに女が視線をずらした瞬間に、恐ろしいものが見えたかのように顔を引き攣らせ、取り憑かれたようにテーブルの上を物色しだした。ビーカーやグラスを次々と床に落として割っていることも一切気にせず、彼女は両手でテーブルの上を荒らす。やがて一枚の紙袋を見つけると、そこに書かれていた文字を読んだ途端に腰を抜かしたように床へ座り込んだ。
「そんな、まさか……。あなたは――山田様に何を、何を話したのですか……?」
「それよりも――山田組長について、あなたが知っていることを話して欲しいですね」
「……」
「もしかしてあなたは、山田組長のことを愛していたのですか?」
馨は軽蔑するような冷たい視線で女を見詰める。
「私は……誰よりも山田様のことを愛していました。しかし――山田様は、私のことをただの秘書としか思っていなかったのかもしれません」
「……詳しく聞かせてもらいましょうか」
女はバランスを確かめるかのようにゆっくりと立ち上がって頷き、自分の過去について語り始めた。
「私が山田様と初めて出会ったのは――私達が大学を卒業した頃、何十年も前の話ですね。私はそのとき姉と一緒に暮らしていて、山田様もその頃から既に親交があったのか、りゅ――いえ、四郎様とご一緒でした。
私は――恥ずかしながら、そのときに山田様を初めて見た途端、彼の虜になってしまいました。彼がどういう職につき、どういう人物かと聞いたときにも諦める気など全くせず、私はそのまま彼の秘書となり、今日まで彼の傍にい続けました。
彼はすぐに組の頂点に上がり、有り余るほどの財産も手に入れたので、二人で結婚することを決めました。しかし――婚約を決めた一週間後、私は、ある事実を知ってしまったのです」
女は馨から視線を外して目の端から流れた涙を指先で払い、すぐに馨に視線を戻して続けた。
「私は――子供を産むことが出来ない体だったのです」
「……たとえ子が産めなくても、結婚はできるじゃないですか」
「もちろんそうです。私も最初はそう考えました。確かに彼との子供を作れないのはとても辛かったのですが、彼を愛する気持ちは変わりませんでした。でも――彼が愛していた女性は私だけではなかった……」
女はうつむき、涙をぼろぼろと床へ垂らしながら己の過去について話していく。
「彼は、私の姉とも関係を結び、その結果――彼女の体に新たな命を宿らせたのです」
「まさか――」
馨は一歩後ずさりをした。
「そう。ちいは山田様の娘ですが、私が産んだ子ではないのです。彼女本人はまだ気付いていないようですが……それも時間の問題でしょうね」
「あの人は――山田組長は、いったい何を考えてそんなことを……」
「理由なんてないんでしょう。子供が産めない私はただ面倒見のいい秘書でしかなく、私と顔の似た正常な体を持った姉に好意を抱いた、それだけだと思います」
「なら――どうしてあなたはそこまでして彼の傍にい続けるのですか?」
女は顔を上げ、頬を伝う涙を手の甲で拭き、馨に視線を向けて言った。
「彼がそんな人だと分かっていても――私の心は、彼を憎むことが出来なかったのです」
「……そういう気持ちがどういうものなのか、僕には分かりませんね」
「馨様はまだ、そのような人に出会ってないからです。自分の人生を変えても良いくらい素敵な相手に出会えたとき、嫌というほどこの気持ちが分かりますよ」
馨は女に背を向け、ベッドのすぐ横にある窓の方に近寄っていった。
「あなたのお姉さんを殺したのは――守屋さん、あなたですね?」
女は目を見張り、それに答えるかのように僅かに頷いた。
「姉――いえ、守屋美香は、自分で言うのもなんですが、心底真面目な私とは裏腹に、大学を卒業しても大人になれず、子供のように毎日遊んでいるだけの人でした。そんな何もしていない彼女に山田様を奪われ、彼の子供まで産んだことを、恨んでいたんだと思います」
「そのタイミングで、あの薬が出回っていることを知ってしまったのですね」
「……私は――ひどい女です。彼がこの世にいなくなった今、私にはもう何も心残りはありません。ちいも幼い頃から私のことを嫌っているようです。育て親というよりは山田様の使用人と思われているのかもしれません。それに、私はあなたにまでひどいことをしてしまった……」
「僕は――何も気にしていませんよ?」
「自分を産んでくれた母親がいなくなって、何も感じない子供はいません。私は取り返しのつかないことをし過ぎました。その結果――何人も傷つけ、山田様まで死なせてしまった。こうなってしまった以上、私に出来ることはもう――」
馨が振り返ると、女は自分のこめかみのあたりに、黒々と光る銃を突きつけていた。
「あなたが死んでも、誰も喜びませんよ」
「……山田様も同じことを仰っていました」
「……嫌ですねぇ。僕は彼が好きじゃないのに」
女は口元を歪ませ、そのまま引き金を引いた。
パンと、発砲音が鳴った。だが彼女には何も変化がなく、部屋の中に発砲音の残響と、焦げた臭いが部屋に広がるだけだった。
「……火薬銃? どうして!?」