先輩
※
あぁ――人間という生き物はなんて馬鹿なのだろう。
恋愛、恋、愛、好意――。そんなものを、よく人々は平気で口に出来るものだ。
そんなものなど、現実には存在しないというのに。人々が恋愛と思い込んでいるのは、単なる妄想でしかない。実際にしていることといったら、男女が夜を共に過ごすことただ一つだけだ。
好きだとか愛だとか言っても、結局はヒトの――生物の子孫を残すという本能を、適当に誤魔化しているのに過ぎない。
人間など、自分たちをあたかも別な生命体のように考えているが、それも自意識過剰でしかなく、哺乳類の生物の一部なのだ。猿や犬などと何ら変わらないのだ。
――くだらない。それなのに、己らの生殖行為を美化して楽しんでいる連中なんて、くだらなすぎる。
だから――あの子にも、汚らわしい現実を見せてあげよう。
図書館の奥に位置する書庫の扉を、そっと開けた。
※
――いさん。
……わ井さん。
……河井さん。
私の名前を呼ぶ声に気付き、はっと飛び起きて声のする方へ顔を向けると、ベッドの横にエプロンをつけた保健室の先生が立っていた。
「もうすぐ帰りのホームルームが始まりますよ。保健室利用記録は書いておいてあげるから、教室に戻りましょっ」
先生はそう伝えて制服のリボンと脱いだ靴下を渡してくれた。
上半身を起こし、開かれたカーテンの間から時計を見ると、あと5分で六時間目が終わろうとしていた。つまり私は、二時間も保健室で休んでしまったようだ。
急いで靴下を履き、先生に御礼を言って、リボンを締めながら駆け足で教室へ向かった。寝ていた間のことは当たり前だが分からないが、保健室にいた生徒は、私一人だけのままだった。
教室に戻るとちょうど授業が終わったばかりのようで、教師用の机には担任の先生が座って書類を書いていて、クラスの皆はざわざわと雑談を交わしながら鞄に教科書を仕舞っていた。何人かの女子が心配して「どうしたの?」と聞いてくれたので、「貧血で横になっていた」とだけ言っておいた。
ロッカーから鞄を取って自分の席に着いた流れで隣の席を横目で見たが、リンの姿はなかった。鞄は朝に教室へ入って来たときと全く同じ状態で置かれていた。
六時間目までの授業が終わっても戻ってこないなんて、相当忙しいのだろう。もしかしたら、近々ピアノのコンクールに出場するのかもしれない。それなら、さっき様子を見に来てくれなったのも納得できる。
最近急激に様々なことが続いて起きていたので、私もいつもより不安になっているのだろう。ほっと胸を撫で下ろしながら、体の中にたまった不安を吐き出すようにゆっくりとため息をついた。
帰りのホームルームでは、ストーカーに注意して放課後や部活の後はすぐ帰る事と、原因不明の病気に罹った生徒がいるから手洗いうがいをしっかりする事を、毎日かならず言われる。
そこまで言わなくても、生徒達は充分気をつけているだろう。
帰りの挨拶をして掃除の時間になったとき、河井さん、と担任の先生が呼んだ。
「桃瀬さんの鞄、持っていってもらってもいい? たぶん部活には来るでしょうから……。もしこなかったら、家まで届けてもらってもいいかしら?」
はい分かりました、と私は答え、リンの鞄を受け取った。やけに軽く、中には教科書一冊も入っていなさそうだった。
元々今日は授業に出る暇がないほど忙しくなると分かっていたから、何も持ってこなかったのだろう。
掃除を簡単に済ませ、音楽室に向かった。二つの鞄を片手に持ち、階段を下りていると、リンの鞄から何かが落ちたのか、ゴン、と金属質な、重い落下音が足元で鳴った。
、階段を下りるためだけに作られたロボットのように、階段を下りることに集中していた自分の足の動きを停め、足元を見ると、そこにはリンの携帯が開いたままの状態で落ちていた。鞄から落ちた衝撃で開いてしまったのだろう。念のため確認してみると、思ったとおりリンの鞄のチャック開いていた。
自分の鞄を床に置き、しゃがんで携帯を拾ったときに、開かれた画面を覗くと、そこには大きな文字で、
『おはようございます先輩! えっと……今日の放課後に書庫に行けばいいんですよね?』
と書いてあった。
リンが誰かに送ったメールだろう。アドレスは書いてあるが、電話帳に名前を登録していないままのようなので、アドレスを見ただけでは誰だか分からない。
先輩――?
今日の放課後――?
書庫――?
……嫌な予感がした。
まさか――先輩というのは、馨先輩の事なんじゃないか……?
いつもリンがメールをしていた相手というのは、馨先輩なんじゃないか……?
今日の放課後、会う相手は、馨先輩なんじゃないか……?
一気に全身が凍りつくように冷えていき、携帯を握る指が細かく震えだした。どくどくと鼓動が聞こえ、視界が目薬を挿した直後のようにぼやける。
嘘に決まっている。リンがそんなことするわけがない。リンは私と馨先輩のことを応援してくれているんだ。そんなリンが馨先輩とメールをして、人気のない書庫で会うわけがない。
必死に自分にそう言い聞かせても、信じられない。何度言い聞かせても、震えは収まるどころか、口元や膝にまで広がった。
リンは何を考えている――?
リンは何をしようとしている――?
私と馨先輩が付き合えるように、手助けをしてくれているのか?
それだったら余計なお世話だ。私は馨先輩のアドレスすら知らないのに。
こんな状態で部活に集中することなど、できるわけがない。
こうなったら、自分の目で確かめに行くしかない。
私は階段をおぼつかない足取りで駆け下りていき、靴に履き替えて、真っ直ぐ図書館に向かった。生徒達が何事かと走る私へと目をやる。それぐらい目立つほど、私は必死な形相で走っているのだろう。しかし、今の私にとってはそんな事を気にしていられる状況ではなかった。
図書館の一階の奥にある書庫。書庫と言っても、ほとんどそこへ仕舞う必要がないほど、一階と二階に無数の本棚が並んでいるため、四畳ほどの大きさしかない。
何より、目立たない位置にあるのだ。書庫手前にある棚には、中学生には解読不能な古文書やら外国の分厚い本が埃に埋もれて置かれているため、物好きな生徒でない限り、そこへは近付かない。日もほとんど当たらず、一日中影になっているので、書庫の存在を知らない生徒も多いらしい。
そんな部屋だから、校内では出来ない残酷ないじめや、男女の破廉恥な行いをする場となってしまったのだ。 そのようなことが起こっているのは、昔から教師達は知っている。そのためしっかりと扉には鍵が掛かっていて、一般の生徒は中に入ることが出来ない。
それなのに、未だに「書庫でこういう事があった」という噂は偶に聞く。厳重に捕縄されている扉を、どうやって破っているのだろう。
もちろんそのことも教師は気付いているので、図書委員は勝手に書庫に入ろうとする生徒がいないか監視するように、と忠告されていた。