先輩
十メートルほど離れた距離を歩いていたのは、ちーちゃんだったのだ。
「ちーちゃん……!」
「あれ、なんだ美紀か……」
私が彼女の傍に着いて声を掛けると、ともちゃんとは違ってちーちゃんはさほど驚かず、なんだかがっかりしたような調子でそう言った。
雨も降っていないのに、どうして傘なんて挿しているのだろうと思ったが、よく思えばちーちゃんが今挿しているこの傘には、たくさんの電飾が付けてあるのだ。こんな傘を雨に濡らしたら、一発でショートしてしまうだろう。持ち手がプラスチックかゴムでなければ、感電してしまってかなり危険だ。
「二人は……知り合いなのかい?」
「はい、そうなんです。山田ちいちゃんって子で、KL……じゃなくて、吹奏楽部で一緒なんです!」
「山田、さんと言うのかい……?」
馨先輩は何故かそこを気にしたようだ。別に山田という苗字の人など、日本中に数え切れないほどいると思うのだが。
「? そうですけど……」
そんな馨先輩の不思議な質問に、さすがのちーちゃんも首を傾げた。
「君の父は、どんな仕事をしている」
急に馨先輩が低くこもった声で、ちーちゃんに聞いた。口調も私と話している時とも、始業式の日にあの二人声に怒鳴ったときとも違う。なんだか憎しみがこめられているような口調だった。
「それは…言えません」
「何故だ」
「わたしの父は――」
「今、何処にいる」
「……東のビルに」
分かったと馨先輩は頷き、ちーちゃんから視線を外した。
東のビル? それはヤクザのビルのことだろうか。確かにちーちゃんはDクラスだ。ヤクザと関係があってもおかしくないだろう。しかし――何故そのことが、馨先輩に分かった? 馨先輩はちーちゃんに今初めて会ったようだったし、お父さんがヤクザということも何故聞かずに分かったのだろう。
僅かな沈黙の後、「美紀」とちーちゃんに呼ばれて、私はちーちゃんに目を合わせた。傘がピカピカと光っているため、目の奥にずきずきと残像が残る。
「……いい調子だね。そのまま頑張って!」
ちーちゃんは早口で私に向かってそう言うと、傘のライトを消し、暗闇の中へと走っていってしまった。
私の目は傘の七色の光の残像がはっきりと残り、そのままちーちゃんの後を追いかけるのは不可能だった。
馨先輩も私と同じ状態なのか、二人でその場で二分ほど立ち止まっていた。残像が薄くなってきたあたりで、馨先輩の方から口を開いた。
「河井さん……申し訳ないんだけど、僕には急用が出来てしまった。自分から言っておいて本当に申し訳ないんだが、ここからは一人で帰ってもらってもいいかい……?」
馨先輩は普段の優しい声に戻して言った。なんだか、胸が急に痛み出した。緊張しているんではない。なんだか苦しいような、胃の中に鉛が入っているような重さを感じる。
この痛みは、この気持ちは何……?
――寂しい?
――悲しい?
とりあえず「分かりました、ありがとうございました」と震える声で言いながら、私は馨先輩に頭を下げ、そのまま顔を見ずに横へ向き、家への道を走って帰った。
背後から「本当にごめん!」と馨先輩の声が届いた。
真っ暗な道を、家に着くまで走って帰った。
家に着いた時に、ある疑惑が私の頭を過ぎった。
ともちゃんが消えたあの時、ともちゃんと私の前に現れたストーカーと思わしき人物は、ちーちゃんだったんじゃないかと――。