先輩
音楽の先生で、吹奏楽部顧問でもある加藤先生は怒るどころか、笑顔で私とリンを迎えてくれた。それもそのはず、会場には部員が半分ほどしか来ていなかったのだ。空席がいくつもあってすかすかとしている。
どうやら二年生はほぼ全員いるようだが、三年生は一人も来ていないようだ。
何があったのだろう。私とリンは単なる遅刻だが、先輩達が全員来ていないのには何か理由があるはずだ。
「変ねぇ。部員だけじゃなくて、三年生全員が一人もいないなんて。学年集会は始業式の後だし……」
先生も知らないようである。するとそれに答えるかのように教頭先生がマイクで全校生徒に向かって言った。
「えー。まもなく始業式の開式時刻ですが、三年生が現在緊急学年集会を行っているため、もうしばらくお待ちください」
「きんきゅー学年集会ってなんだろね? みーちゃん」
「わかんないけど、始業式の前にやるんだから、相当重要な事なんじゃない?」
一人の肥えた教師が教頭に向かってどすどすと床を鳴らしながら走ってきた。溢れ出る汗をタオルで懸命に拭きながら教頭と話している。今は四月だ。運動をしたからといって大汗を掻くような季節ではない。
教頭の顔色が一瞬の内に変わった。眉間に皺を寄せ、険しい表情をしている。そしてそのまま肥えた教師を連れて体育館を走って出て行った。
普段冷静に行動をしている教頭先生が慌てて走って行くなんて、いったいどんなことが起こっているのだろう。
教頭は五分もしない内にすぐ戻ってきた。小走りでステージの上に戻り、机の前に立つと、
「今しばらく、お待ちください。それと――教師一同、一旦ステージ横に集まってください」
ぞろぞろと動き出す教師たちと共に、加藤先生も指揮棒を持ったままステージの方へ向かった。何か大きな問題でもあったのだろうか。
「ねぇ、みーちゃん」
リンがコントラバス本体に寄り掛かりながら話しかけてきた。「なに?」と聞くと、コントラバスを隣の椅子に立てかけて、
「ちょっと耳かして」
と言い、右手をメガホンのような筒状の形にして口に当てた。私はファゴットをひざの上に置き、リンの傍に寄って耳を向けた。
「楽器置いてさ、何が起こってるのか今見に行こうよ!」
この状況でひそひそ話をしようとしてきた時点で、何にでも好奇心なリンのことだから、そんなことを言うだろうな、と薄々感づいてはいた。
「行くって、楽器はどうするのさ」
「置いてけばいいじゃん。三年生と先生がいなくても、二年生はみんな揃ってるんだから別に盗まれもしないし」
「それはそうだけど……。こんな状況で外に出てもいいの?」
「大丈夫だよ。ここからならドアも近いから、ともちゃんにちょっとおトイレ行ってくるね、とか言っとけばさ」
そうかなぁ――、と私が口籠もっていると、
「まったく、みーちゃんは相変わらず優等生なんだから! 中学生なんだからちょっとは冒険してみなきゃ駄目だよ!」
腕をぶんぶん振り回しながらリンは言った。「中学生なんだから」とリンが言うとなんだか違和感があったが、確かにリンの言う通りかもしれない。
こういった問題は解決しても、大抵生徒にははっきりと伝えられず、何一つわからないまま、まるで何も起きてなかったかのように話は消えてしまうのである。私はそれがすっきりしなくて嫌だったし、今回の件には尚更興味があった。
もしかしたらこのことがきっかけで、さっき音楽室にいた人形のような女生徒の謎が解けるかもしれない、と思ったからだ。そもそも謎といっても、音楽室に女生徒がピアノの前に立っていただけなのだが……。それでも私にはどうしてもあの生徒が、普通の生徒には見えなかった。
不思議なオーラを感じた。あそこから全く動こうとしていないような、誰かを待っているかのような――。そんな気がした。
だから、私はさっきから何が起こっているのか気になってしょうがなかった。行くのなら今しかない。
「よし、リン。行こう!」
「アイ愛サーっ!」
同じBクラスで低音楽器のユーフォニウムをやっている、ともちゃんこと原 朋子ちゃんに、「リンとお手洗いに行ってくるね」と伝え、ファゴットをスタンドに立てて固定し、リンと体育館を出た。
体育館のトイレはそっちじゃないよ――と、ともちゃんが言い終わる前に私とリンは外へ飛び出し、階段を下りて行く。
「今日はノリがいいじゃないか。みーくん。何かいいことでもあったのかね?」
「普段は笑顔一つみせないくらい冷静なあの教頭先生が、大慌てだったのが気になって。たまには信憑性のない噂で知るより、自分で目で真実を確かめてみたいし!」
「ほうほぅ。百聞くより一見る、ですね!?」
それを言うなら『百聞は一見に如かず』ではないだろうか。使い方も間違っている気がする。
「ともかく、私だってBクラスなんだからたまには悪いこともするのよっ!」
「うにゃっ! みーちゃんそんなことしてたら鬼クラに入っちゃうよっ!」
鬼クラとは、「鬼塚クラス」のこと。担任がある漫画の登場人物に似ていることから、Cクラスの俗称として呼ばれることがある。
「このぐらいのことで、あんなクラスにはいかないわよ!」
しかしそうは言ったものの、何が起こっているのかは全くわからないのだ。分かることといえば、教頭が息を切らして走るほど、教師全員が集まって真剣な顔をして話し合うほど大変なことが、起こっていることだけだ。
だから、場合によっては本当にCクラスに移動してしまうことも――いや、それならまだいい。もし、この問題にDクラスやヤクザが関係していたら……。
クラス移動はないが、Dクラスの生徒に何をされるかわからない。そのほうが何倍も怖いし、そういうことが起こっている可能性の方が、高いんじゃないか、と今になって思った。
私は階段を下りて三年校舎に向かう途中で、一旦立ち止まってリンに聞いた。
「ねぇ、Dクラスの生徒が何かしてる――とかだったら、私たちやばくない?」
「その心配はないよ」
「どうしてそんな自信もって言えるの?
「だってDクラは学校で式をやる時は、かならずあっちの式に行くもん」
リンはそう言いながら東の方角の建物に向かって指を指した。どうしてリンがそんなことを知っているのだろうか。
「先輩に聞いたの。ヤクザにも始業式や夏休みみたいな一連の行事はあるのだって」
夏休みはまだ分かるかもしれないが、始業式をやる意味がわからない。
リンによれば、始業式というより、組全員が集まって新しく組に入ることになる下っ端の紹介等をするといった、入学式ならぬ入組式のような行事らしい。いったいそんな話をどんな先輩に聞いたんだか。
「Dクラの仲いい勝山先輩」
「えっ? リン、Dクラスの先輩と友達なの?」
リンみたいな幼い子が、Dクラスの恐ろしい壁を破って教室に入っていったのだろうか。しかも三年のDクラスに。無謀なリンなら入ってもおかしくない気もするが。
「リンゴが一年の時に、下校中転んでひざすりむいて泣いてたら、その先輩が『大丈夫?』って声かけてきて、傷口にばんそうこう貼ってくれたの」
Dクラスにもそんな優しい人がいるんだ、と私はつい口に出してしまった。