先輩
ただ、コントラバスはというと――吹奏楽部に入って一年経った今でも、お世辞にも、あまり上手には弾けていないみたいだ。まぁ音程がきちんと定まっているピアノに対して、自分で音程を一音一音調整しなければならない弦楽器が苦手なのは、当然といえば当然かもしれないが。
「ねぇ、みーちゃん」
私がずっと黙っていたので、リンが話しかけてきた。
「始業式って……確か吹奏楽部の演奏あったよね」
そうだった。すっかり忘れていた。
式の時は、吹奏楽の演奏がかならずあるのだ。そのため、部員は普通の生徒より少し早く学校に登校しないといけなかったのだ。
私とリンは普通の生徒と同じ時間に来てしまった。春休みぐうたらしすぎた所為だ。今からでも間に合う――ことを祈りたい。
「リン! 急がないと!」
「みーちゃん! 走るよ!」
とりあえず、まずは音楽準備室に楽器を取りに行かなくてはいけない。
音楽準備室は二年校舎の三階の、音楽室の真向かいにある。
リンと昇降口でどれだけ話していたのかはわからなかったが、階段を駆け上がって急いで楽器を準備して体育館に行けば、ギリギリ間に合うだろう。
私は上履きに乱暴に履き替えて、階段に向かって地面を蹴るように走った。スカートがめくれてしまわないかなんて、気にならずに、むしろ他の生徒たちがのろのろと階段を上っているのが、邪魔で仕方なかった。
二階まで駆け上がったところで後ろを振り返る。――が、リンの姿はなかった。
手すりの間から下を覗いてみる。リンの姿はどこにも見えない。
そうだった。リンは足が非常に遅いのだ。
私が普通の人よりも結構速いという理由もあるが、恐らくまだ上履きに履き替えているのだろう。彼女はひとつひとつの動作も人より五秒くらい遅いのだ。
私はリンを放っておいて、先に三階へ向かった。
音楽準備室に入り、ファゴットを組み立て終わってもまだリンが来なかったら、コントラバスの準備も、私がしておいてあげよう。
リンより私が先に準備を終えてしまうことは、普段からよくあるので、いつの間にか、私までコントラバスの準備の仕方も覚えてしまった。
三階に着いた。そのまま足を止めずに音楽準備室に向かった。鍵はドアノブにぶら下がるように挿し込まれたままの状態だったので、職員室まで取りに行く手間が省けた。職員室は二階にあるから、どっちにしてもそこまで時間は変わらなかったのだが。
ドアノブに手を掛けて扉を開けようとした、その時――。
音楽室から気配がした。
ゆっくりと振り返って、扉にはめ込まれた正方形の窓から室内を覗く。
一人の女生徒が、背を向けてピアノの前に立っていた。長い黒髪は、腰の辺りまで真っ直ぐに伸びている。
……誰?
私の視線に気付いたのか、生徒は振り返った。しかし――。
そこにいたのは――、
制服を着た人形だった。
私とその生徒の距離は十五メートルぐらい離れていたし、音楽室の扉のはめ込みガラス越しだったので、はっきりと顔は見えないが、ビスクドールのように整った顔をしている。肌が雪のように白い。
動揺して金縛りにあったかのように、身体が動かなくなった。前を見詰めることしか出来なくなった視線に彼女の瞳が合わさった。その人形は表情のない顔をゆっくりと歪ませて――、
笑った。
悲鳴が出そうになったが、喉が詰まって声が出なかった。これまで体感したことのない恐怖を感じて、足が自然と後退していって準備室のドアに寄り掛かり、すとん、と尻餅をついたように座り込んでしまった。
「みーちゃんっっっっ!」
小学生が出す悲鳴のようなリンの甲高い叫び声が、三階の廊下中に響いた。
私はずっしりと重くなった体を、力の入らない腕で無理やり起こし、もたつく足を必死に動かして、リンにしがみつくように抱きついた。
「リン……。人形が……」
私の声は震えていた。声を出すだけでも精一杯だった。
「にんぎょう?」
「音楽室の中に……」
「なんだって? うにゃ、どれどれ、っと」
リンは体を思い切り右に傾けて音楽室を覗いた。
「――何もいないよ?」
「えっ? でも、ピアノの前に立って――」
「何もナイないよ? 陰も見当たらないし、ピアノも全部見えるもん」
そんな馬鹿な。
私はリンから離れ、安定してきた膝を伸ばして立ち上がり、恐る恐る中を覗く。
そこは――、
普段と何も変わらない音楽室だった。
まさか。あれは幻覚だったの? ――いや、そんなわけはない。私は今まで幻覚など見たことがない。確かにそこには人形、いや人形のような女生徒が立っていたのだ。
彼女は私に向かって笑ったのだ。だから生きている。人形の様に見えただけだ。
「みーちゃんどうしたの? リンゴをおいて、一人でうさぎみたいに階段をピョンピョコ跳んでいったと思ったら、急にリンゴに抱きついてきて。……あ、そっか。さっき昇降口でリンゴが抱きついたから、そのお返しかぁ! さすがみーちゃん! ……でもちょっとこれは大袈裟過ぎだよ。いくらまわりに人がいなくても、リンゴだってここまではしないよぉ」
「そうだよね。私の間違いよね。うん、そうよね……」
自分にそう言い聞かせても、信じることはできない。私は確かにこの目で見たのだ。はっきりと。
それでも、今は間違いだったと思うしかなかった。そうしなくては自我が崩壊してしまいそうだったから。現実と事実はかならずしも一致するとは限らない。少しでも落ち着かせるために、何度も自分の心にそう言い聞かせた。
私は寝ぼけているかのようにふらふらと移動し、準備室のドアを開けた。薄暗い室内には誰もいなく、楽器のケースがあちこちで口を開けて転がっていた。
「リン、ごめんね。きっと久しぶりに走ったから、疲れちゃってなんだか変なものが見えたのかもしれない」
「それはダメだ! みーちゃん。運動不足はメタボの始まり! 罰として外周五周!」
「五周はさすがにキツイでしょ……」
「もち、冗談サ。それより早く準備して行かないと!」
「そうねっ!」
あのタイミングでリンが来てくれて本当によかった。もし、あの時リンが来なかったら――。
背筋が氷を飲み込んだように瞬時に冷たくなり、ぶるっと身体が震えた。
もう考えることはやめよう。考えたところで解決はしない。ただ恐怖感が増すだけだ。
私とリンは楽器を持って二階に下りた。リンはコントラバスという大きい楽器抱えながら移動するので、さらに歩くスピードが遅くなった。
二階には体育館への連絡通路がある。二年校舎は音楽室も近いから、今年は移動授業が楽になりそうだ。
連絡通路も何人もの生徒が、都内の駅前のようにわらわらと歩いていて邪魔だったが、ファゴットを抱えている私の後ろにはコントラバスを抱えたリンがいたので、それに気付いた通行人は大きく左右に避けてくれた。
体育館に着き、ステージの横にある時計を見ると、式が始まる十分前だった。
「よかった。美紀さんと林檎ちゃんはちゃんと来てくれたのね。早く席に着いて」