先輩
5
朝起きると、眠っている間に泣いていたのか、瞼が赤く腫れていた。
そこまでひどくはなく、顔を洗い終わったぐらいには元の状態に戻ったからよかった。――が、問題はそこよりもおでこの方だった。
昨日何者かに襲われた後、私は家に帰って自分の顔を鏡で見ると、額が真っ赤に腫れていた。
母に「なにそれどうしたの?」と聞かれたが、ストーカーに襲われたなんて言ったら母がショックで倒れてしまいそうなので、私は「転んで机の角にぶつけた」と答えた。
すると母は「美紀は馬鹿だから」だの「ボーっとしてるから」だのぶつぶつ言いながらも、しっかりと消毒をして薬を塗ってくれた。消毒液を塗ったときと、お風呂に入ったときは、涙が出るほど傷が染みた。
次の日の朝になれば腫れも痛みもだいぶ収まるだろう――という期待を裏切るかのように、私の額はズキズキと痛みを与えた。きっと腫れもまだひいていないんだろう。
四月十九日。休日の今日は約束したとおり、リンの家に遊びに行く日だ。
休日は、家にいるときはいつも学校のジャージで過ごしていて、春休みはろくに出かけなかったので、お洒落して出掛けるのは久しぶりだった。リンは普段からお洒落な服を着ているから、お洒落をしないで近所のデパートで買ったような安い服を着ていくと、劣等感を感じてしまうのだ。
だから今日は季節を考えて春らしく、真っ白なブラウスに桜色のカーディガンを羽織り、控えめな明るさの黄緑色のスカートでコーディネイトし、髪は小学校の頃にリンからもらった、林檎のマスコットがついているヘアゴムでとめた。このコーディネイトに決定するのに、なんと三十分近くも掛かってしまった。しかし、これぐらい念入りに服装を選ばないと、リンの服装と比べた時に見劣ってしまうのだ。
リンの服装は流行に乗りながらも自己流にまとめていて、都内に行けば学生向けファッション誌のストリート撮影に声を掛けられそうなくらいコーディネイトが上手い。将来はファッションコーディネーターとか、独自にブランドを作る仕事に就けば、相当売れるんじゃないだろうか。
ベタ誉めをしているが、モデルである私の姉も自分の服装の参考にしていたし、過去に原宿や渋谷で雑誌編集者に声を掛けられた経験が何度もあるらしい。といっても、最近はそういうものに見せかけた詐欺等も多いから、全部断ってしまうと言っていた。
まぁ、結局はそれぐらいオシャレなリンに対抗意識をもったところで、私のファッションセンスと持っている服では、リンに勝てるわけなどないのが現実なのだが……。
お洒落な服や欲しい服はお店に行けばたくさんあるけれど、高い物はTシャツ一枚だけでも五千円以上する。中学生である私にはとても手が届かない金額だ。
リンの服は全部母に買ってもらったり、作ってもらっているらしい。ブランド名を聞いた限り、どれも高いものだったが、そのブランド物の服と組み合わせても違和感のない服を作るリンの母もまた、これを仕事にすればセレブな奥様になれるのではないだろうか。
服装がまとまったところでちょうどいいぐらいの時間になったので、私はこないだ買ってもらったばかりの赤い靴を履いて外へ出た。
いつもの学校への通学路を歩いて行って、学校の敷地が見えてくるあたりでいつもの裏門とは逆の正門側の道を進む。そのまま正門を素通りして横断歩道を渡らないで左に曲がれば、リンの家がある通りに入る。これだけ学校に近いと、遅刻ギリギリまで家で寝ていられるだろうから羨ましい。
うちと違ってリンの家――桃瀬家は洋風だ。といっても、うちほど和風な家は相当に古い家でないとないだろうが。灰色のレンガ造りの塀に囲まれた、外国の街に建っていそうなモダンな家である。これで築十何年とは信じられない。
インターホンの代わりについている、クイズ番組の不正解の時の音のような変な音の鳴るブザーを押す。防犯のためなのだろうか、やたらに音が大きいので押すと耳がびりびりするうえに、向かいの家の番犬が勢いよく吠えるから厄介だ。
「は〜い♪ どなたかしら〜?」
リズムに乗って歌うように流れてきた声は、リンのお母さんの声だ。ただでさえ普通の人よりも声が高いリンよりも、さらに高音なので、まるで超音波のように鼓膜に響く。
「あの、河井です」
「あららら! みーちゃん、ひっさしぶりじゃあない? ん〜……何年ぶりかしら〜?」
さすがは親子、どうして娘と同じ反応をするのだろうか。たしか最後にお邪魔したのは三月の初め――ちょうど一ヶ月くらい前のはずだ。ここでノリツッコミをすると、リンの時のようにまた面倒なことになりそうなので、
「はい、あの……りんごちゃんいますか?」
普通にスルーした。
「はいはい。今日はおうちに来てくれるって約束だったわよねぇ。おっけ〜。ちゃんとリンリンぷ〜子ちゃんから聞いてるからダイジョビリンコよ〜。ちょ〜〜っと、まっててね〜!」
もうわけが分からない。とりあえず、娘のリンリンぷ〜子ちゃんを呼びにいってくれたことだけは分かった。そんな名前の娘が、いったい日本の何処にいるというんだ。
携帯を開いてメール問い合わせ等を適当にしている間に、ドアが少しだけ開き、リンがひょこっと飛び出してきた。
「おぉ〜〜〜! みーちゃん! 今日はさくらさくら、グリーンスリーブスなコーディネィトじゃないですかぁ!」
訳すと、「今日の服装は桜色にグリーンの組み合わせだね!」と言っている。
リンは、今日は珍しく――というか初めて見たが――ゴスロリの格好をしていた。雑誌に載っているような、とりあえずつけるものをつけまくったゴテゴテとした感じではなく、シックな感じで、外に出てもそこまで目立たないような、落ち着いた服装だ。相変わらず遠目からでも分かるくらい、高そうな服を着ている。
「みてみて! 今日はヨシコブランド最新作、なんちゃってゴスロリ風リンゴ専用コーディネイト! なんと材料費はたったの……!」
「りんごぉ、それは言わない約束よぉ」
そう言いながら家の中から出てきたヨシコことリンの母は、笑顔でリンの口を手で塞いだ。もごもととリンは苦しそうに手足をバタつかせている。そんなに材料費を言ってはいけない理由があるのだろうか――というよりも、これも母が作った服だったということに驚いた。リンの母は専業主婦らしいが、この腕前なら普通に一人で店を開けるだろう。
「あ、あの……」
「あら! こんなところでずっと待たせちゃっててごめんなさ〜い! ほら、リンゴ、家の中に招待してあげなさいっ」
「うにゃ。さぁ、みーちゃん、どうぞどうぞ」とリンに手招きされながら、私はリンの家の中へ入って行った。
「さぁさぁ、リン専用のお部屋は二階ですのよ! 来たまえみーくん!」
玄関に上がって靴を脱いでいるところで、すでに階段を何段か昇っていたリンは私に向かって左手を差し出した。なんだか宝塚歌劇団の男役の様だ。
リンの部屋は想像していたイメージと違って、ごく一般的な雰囲気の部屋だった。無印の学習机と、果物のりんご柄のシーツが敷いてあるベッドに、少女漫画と古い文庫本がたくさん並んでいる本棚。ピアノは移動せずにリビングにそのまま置いてあるようだ。