先輩
4
「やっぱり、りんごはダイちゃんが噂のストーカーさんだと思いますねぇ。ふむふむ」
「ダイちゃん?」
「大和田センセのこと。大吾って名前でしょ? だからダイちゃん」
四月十八日――。始業式から十日経った今日、スパゲッティを一本ずつ丁寧に吸い込みながら、リンは言った。
昨日は明け方まで眠ることが出来なかった。目を閉じると、放課後の大和田先生との出来事を思い出し、先生の不気味な笑みと共に笑い声が聞こえてくるのだ。好きな人のことを考えすぎて寝れないというなら、まだマシ――むしろ幸せ――だが、嫌な出来事を忘れたいのに忘れられなくて寝れないんじゃ、不快でしかない。
その事をリンに話すと、リンは腕を組みながら考え込み、最近噂になっているストーカーの正体が、大和田先生じゃないかという仮説を立てたのだ。
確かに、昨日の先生の行動は明らかに狂っていた。別にわいせつ行為等をされたわけではないが、教師らしからぬ行動ではあったのは事実だ。
元から大和田先生に対してはいい印象を持っていなかったが、昨日の件でさらに印象が悪くなった。出来ることなら、前の社会の先生に戻して欲しい。
「でもさ、それなら校内でそんな事をしなくても、ストーカーとして私の後をつけてくるのが普通じゃないの? そもそもストーカー行為自体が普通とは呼べないけど……。私は今のところ誰にもつけられてはいないし、それに相手は複数の女子の後をつけてるんでしょ? もし大和田先生がストーカーの正体だというのなら、私の後もつけてくると思うわ」
「むむ、みーちゃん、鋭いところをついている! ……ケド、まだまだ甘いわ! ミステリー小説の場合、そんな行動をしてしまったら、読者にすぐ犯人が誰か分かられてしまう! だからダイちゃんはあえてみーちゃんの後をつけないのですヨ」
現実とミステリー小説を一緒にしないでほしい。小説ではストーカーの正体も意外な身内の人だったり、ちゃんと理由があったりするだろうが、今、現実に私達のまわりに潜んでいるストーカーは、そんなドラマ性もないはずだ。ただの変態だろう。
「はぁ。でも、本当にどうしよう……。こういう時に限って、次の授業社会だし……。また何か言われるのかなぁ」
「その時はこのリンゴ様がズバッと言い返してあげますよ! それでもわからないのなら……顔面パンチでノックアウト!」
リンは拳を握ってパンチの素振りをして見せた。
「いやいや、これ以上何かひどいことされたら、教育委員会に通報すればすぐクビになるだろうから。そこまでしてくれなくても平気だよ」
「そうかにゃ? あ、そんなことより――明日、家に何時に来ますか?」
そんなことって言い方はいくらなんでもひどいと思ったが……、まぁ、リンなら許せる。次の日の午後にリンの家で遊ぶ約束をして、昼休みは終わった。
社会の授業は、先生が私に頻りに視線を向ける以外は、特に気になる事はなかった。昨日の大和田先生の行動は一体なんだったのだろう……。私以外の生徒にも、あんなことをしているのだろうか。そうだとしたら、犯罪に近い。
その日の帰り道。ねずみ色の雲が空一面を覆うように一日中曇っていたので、夜になると空は漆黒と呼ぶのにふさわしいくらい暗闇に包まれた。月がぼやけているから、明日はきっと雨になるだろう。
馨先輩と一緒に帰っていた時を思い出しながら、とぼとぼと一人で帰っていった。
あの時は、馨先輩とたくさん話せた。――といっても私はほとんど話を聞いていただけなのだが。それでも図書館で後ろからじろじろ見ていたついこの前よりは、距離が縮まっているのは確かだ。
私の初めての恋は、一歩一歩順調に進んでいる。
大丈夫。馨先輩が私のことをどう思ってくれているかは分からないけれど、もし私のことが嫌いだったら、あんな風に家まで送ってはくれないはず。だから、心配することなんてないのだ。
そう自分に言い聞かせながら薄明かりの電灯に照らされながら歩いていき、近道である団地の中を通り過ぎようとした時――、団地の門の前に一人の女生徒が立っていた。
あれは……、ともちゃん?
「……? 美紀……!」
ショートボブの髪に猫のような細い目、「まだ成長期がきてないのよ、だからこれから絶対に大きくなるのよ」と言いたげな平らな胸に、意外と細くて引き締まった足。それはまさしく原朋美ことともちゃん本人であった。
ともちゃんは正門組だし、家は全く方向が違うはず。それなのに、何故こんなところに立っているんだろう……?
――私、今日カヲル君に告白するから。
昨日ともちゃんの発した言葉が、頭の奥から聞こえてきた。
「こんなとこで誰か待ってるの? ともちゃんちって、こっちじゃないよね……?」
「う、うるさいわねっ、美紀には関係ないでしょ」
ともちゃんはいらつきながらそう言って、ぷいと顔を背けた。しかしその発言とは裏腹に、彼女は私を見た瞬間、驚きと共にほっと安心したような、会えてよかったと思っているような表情をしていた。単なる思い過ごしかもしれないが。
きっと――ともちゃんは、馨先輩とここで待ち合わせをしていたのだろう。しかしもしそうだとしたら、邪魔者である私に対して、ともちゃんならもっと怒鳴ったりするはずだ。
ともちゃんは、一年の頃から私のことをライバル視していた。
テストや楽器の腕の他に、身長、体重、胸の大きさ、男子からの評判、さらにはメールアドレスの文字数の多さまで……。私のことが決して嫌いなわけではないらしいが、私に対してのみの彼女の負けず嫌いは、異常なくらいだ。
馨先輩と待ち合わせをしていることは明らかなので、私はこの際、ともちゃんにはっきりと聞いてみることにした。
「ともちゃんは――馨先輩のこと、好きなの?」
「……どうしてそんなこと聞くのよ」
「だって、昨日言ってたじゃない。『馨先輩に告白する』って。……告白って、好きな気持ちを伝えるってことでしょ? それってつまり――」
「もういいわよ。それ以上言わないで……」
今度こそは怒鳴られる――と思ったが、またもその予想は外れ、ともちゃんの声は消えそうなくらいに小さかった。背中を向けているため、表情は伺えないが、決して怒っているようにも感じられなかった。
さらにともちゃんは、意外なことを言い出すのであった。
「わたしね、実は――カヲル君のこと、正面から見たことないの」
「え……?」
ということは、顔も見たことがない人に告白をしようとしていたのか…? それでは誰かに「この人が馨先輩だよ」と紹介されない限り、待ち合わせすらできないはずだ。
まさか、その役を私に任せるのか? と思ったが、よく考えれば、馨先輩は銀色の髪というかなり目立つ特徴を持っている。それなら後姿しか見たことがなくても、髪色だけでも判断できる。
「告白する、っていうのもね、嘘。ただ――美紀が羨ましかっただけなの……」
そう言ってこちらに向き直ったともちゃんは――泣いていた。もしかしたらともちゃんは、馨先輩のことをそこまで好きと思っていないんじゃないだろうか。顔も一度も見たことがないのだし、その可能性はほぼ確実といえる。