先輩
「その当時、あいつは別な女性と関係を作り、突然家を出て行ったんだ。しかもまだ幼い僕の妹を連れて! 僕と母は二人、わけのわからないまま取り残されてしまった。父はいなくなったが、妹も同時にいなくなった。僕は一瞬の夢を見させられ、期待を裏切られただけだった!」
馨先輩の話とよく似ている。どうして男の人は奥さんがいても他の女性と浮気したり、関係をもってしまうのだろう。ヤクザだからだろうか。いや、そんな事はヤクザも何も関係ない。少なくとも他の職業の人よりは水商売関係の人と関わりはあるのだろうが、浮気なんて男であれば誰だってするはずだ。
「僕は不良にいじめを受けていた過去とそんな父の所為で、ヤクザや不良が許せなくなった。だからといって、僕のような貧弱な男一人じゃ、複数いる相手に勝てるわけがない。だから僕は僕自身の権力で奴らの上に立つことを考えた。それが……生徒会長だったのさ! ははははは!」
先生は振り返って私の方を向いてそう言った後、出っ張った腹に響かせるように思い切り笑った。オペラ歌手の歌声のようによく響く。
「そして奴らのような、社会に必要のないクズのような連中と、僕らのような社会に貢献する人間をはっきり分けたクラス制度が、僕の考えたものなんだ」
そんな理由でこのクラス分け制度は作られたのか。不良ややくざが社会の役に立たないかどうかはまだ中学生である私には判断できないが、確かによく考えてみれば、発案者がいじめ等の被害にあっていたら自然にこういうクラス分けになるのだろう。
「まぁ、とうとう僕が在学している時にその制度は実行されなかったんだけどね、その翌年から実行された。それでいじめが激減したと校長から手紙が来た。僕は彼らに仕返しが出来たように思えて、泣くほど喜んだよ」
「でも――先生が提案した時は、生徒に反対されたから採用されなかったんですよね? それなのに誰が採用して実行したんですか?」
大和田先生は、今度はくすっと小さく息を漏らすように笑った。
「ふふ、それは――当時の校長だよ」
校長先生……! リンが言っていた、謎とされている『不在のままの校長』。昔はちゃんと存在していたのか。
「校長は、クラス制度を大いに気に入ってくれた。僕はそんな校長を尊敬もしていた。それなのに、その校長も二年前……」
二年前と言うと、私が小学校六年生か。まだこの中学校には入学していない。
「彼は薬物中毒、もしくは何者かに毒殺されたんだ」
また――、
また薬物中毒だ。
膝が急に震えだし、バランスを崩して後ろに倒れそうになった。ロッカーに手を掛け、なんとか体を支えた。眩暈がして、先生がぼやけて二重に重なって見える。先生の表情は……。
――笑っている?
何故、薬物中毒で亡くなった人が、私の周りには何人もいるんだ。
勝山先輩の父。
馨先輩の母。
そして――校長先生。
偶然ではないだろう。明らかにおかしい。
何かが――、
何かが、裏で動いている。
ヤクザだって校長先生を毒殺する理由などない。それとも校長が薬物に手を出した結果なのか。
手にも震えが走ってきて、私はその場にしゃがみこんだ。体が冷たくなり、呼吸が荒くなっていく。
大和田先生がゆっくりと近づいてきて、私の前に来ると、見下すように不気味な笑みを浮かべながらじっと見つめる。どうして笑っているんだ。このまま襲われてしまうんじゃないか、と思うと吐き気がして胃の中のものが喉へ向かって上ってくる。
――気持ち悪い。
先生は、それでも話を続ける。
「最初にその話を聞いた時は信じられなかった。悲しんだりもした。しかし、悲しんだって人は生き返らない。悲しみにふけるだけで人が復活出来るのなら、キリストやヒトラーも何百回と生き返るだろう。そんなことを思うと、だんだんと可笑しくなってきた。
校長が薬中だって? 生徒に向かってあんなに『薬物は危ない、絶対にやってはいけない』等と警告している学校の主が、薬物の服用もしくは過剰摂取で死んだ? 考えれば考えるほど、次第に校長が死んだ話は笑い話になったよ。ふ……今でも考えれば考えるほど……ふふ、可笑しい……ふはははは!」
ハハハハハ! と、先生は複式呼吸をしっかり使って、再び大声で高らかに笑い出した。笑い声は止まる事なく、夕焼けですっかりオレンジ色に染まった教室に響く。
私はというと、そんな先生が怖くて逃げだしたかったのに、体が動かなかった。背後のロッカーに締め付けられているかのように、脳からいくら信号を送っても私の体は動こうとしない。
「――美紀君。君はなぜこの学校に今、校長がいないのか分かるかい?」
先生は爆音で再生中のラジカセのコードが抜けたかのように急に静まり、落ち着いた口調でそう聞いた。
「いえ、気になってはいたんですけど……理由はわかりません」
「まぁ、理由は今も言ったように、前校長が薬物で亡くなったから、教育上の問題で公表できないだけであり――」
そこで眼鏡を外し、レンズをハンカチで拭いて再び掛けて、
「公表していないだけで、ちゃんと校長自体は存在している」
「教頭先生が、校長の代わりといいながら、本当は校長になってるんじゃないですか?」
「仕事自体はまぁそうだが、教頭は校長の仕事を全部任せられてるだけで、正式には校長ではない。本当の校長は、逃げ回っているんだ」
そう言いながら先生は再び不気味に笑い出した。
逃げ回っているとは、どういうことだろう? 先生の父のように借金取りのヤクザにでも追われているのだろうか。
「校長はね、『自分も毒殺されるんじゃないか』と薬物の恐怖に怯えて学校を飛び出し、それっきり帰ってきていないんだ。普通はそんな校長などクビにして新しい人に変えるんだろうが……。ふん、何故だか今も名前だけはしっかりと残されているらしい。毒殺されるのは校長だけじゃないかもしれないというのに。教頭が一番かわいそうだ」
疲れてきたのか、さっきのように外にまで聞こえそうな声量で笑うことはなく、そのまま私から離れていき、大きなため息をついた。
結局――、校長不在の理由は、謎のままだった。ただ、校長は一応存在していること、そして毒殺に怯える理由と、クビにはならない何らかの理由がある事だけは分かった。
――この学校は、どうかしている。
何とも思わず普通に通っていた学校が、裏ではこんな事になっていたなんて。
校長がいないことがはっきりと伝えられていなくても、リンのように、このことについて気になっている生徒は他にも何人もいるだろう。しかし――、そんな生徒にはあまり知らせないほうがいいような話題を、どうして先生は私に話すのだろうか。
吐き気も治まり、震えも落ち着いてきたのでゆっくりと立ち上がると、大和田先生が再び私の方に向かって、大股でクマが歩いているかのように大きな音を立てながら近づいてきた。
血の気が失せて青くなっているだろう私の顔だけに焦点を合わせているように、凝視しながら、私の肩を両手で力強く鷲掴みして、
「美紀君。君は――生徒会長にふさわしい素質がある」
と言った。