先輩
「おばあちゃんが亡くなってから今までは、僕はほとんど一人暮らしのような生活をしていたね。なんの手続きもしていない所為で、中学校にも通えなかったから、僕は家でずっと勉強をしていた。――それで三年になってようやく通えるようになったのは、先生のおかげなんだ」
確かに、学校に行きたいのに行けないのはかわいそうだ。ただ遊びに来ているだけ、ただ寝に来ているだけの生徒に対する嫌悪感が益々強くなった。
「それで通えることが決定した三月の初め。学校から家に帰ってくると、母が冷たくなって、横に倒れていた」
まさか――。
「母は、薬物中毒が原因で死んでしまっていたんだ……」
薬物中毒。確か勝山先輩のお父さんが亡くなったのも、同じ時期だった。
ただの偶然なのか。それとも何かワケがあるのか……。
「正直に言うと、死んだ母の姿を見てもおばあちゃんが亡くなった時とは違って、なんとも思わなかった。そもそも母とも思っていなかったし、面と向かって話したこともほとんどなかったから、おばあちゃんが亡くなった時の方がずっとショックだったね」
「薬物中毒ってことは、亡くなる前から薬物を服用していたんですか?」
「それは――僕にもよく分からないんだ。ただ、亡くなる二週間ほど前からはあまり夜に出掛けることが少なくなって、一日中寝ていたりしていたね」
やっぱり薬物とは未知の世界の物だ。やめたくてもやめられなくなるという話は授業で習ったから知っているが、そもそも手を出さなければそういう事態にはならないのではないだろうか。それを充分に分かっていたとしても、最初の一回は興味本意でやってしまうのだろうか。
「私の友達――桃瀬さんの知り合いにも、父を薬物中毒で亡くされた人がいました」
「え……? その子の名前は!?」
馨先輩はかなり驚いた反応をしていた。切れ長の目が大きく開いている。
「えっと、勝山先輩です」
「勝山、か……。分かったありがとう」
何か思い当たるところがあるのだろうか。しかし、よく考えれば馨先輩の母も同じ原因で亡くなっているのだ。聞いた名前から何かヒントがないかと考えるのが普通だろう。
私の勝手な考えでは、勝山先輩の父も馨先輩の母も、全く薬物に手を出さない人――薬物とは無縁な人とは言えない立場にいるんじゃないだろうか――と思う。
勝山先輩の父はヤクザだし、馨先輩の母は水商売であり、この町のそういうお店のほとんどの利用者は、ヤクザ関係の人だと聞いたことがある。どちらも普通の人よりは薬物を手に入れやすい立場にいるはずだ。
――それも単なる偶然でしかないのかもしれないが。
「そんなことがあって今現在、僕の家には母も祖母もいない、本当に一人暮らしをしているんだ」
「すいません……。そんな大変な生活をしているというのに、私一人のためだけにわざわざ家まで送ってもらってしまって……」
「ううん、いいんだ。一緒に帰ろうと誘ったのは僕だし、逆にこんな話をちゃんと聞いてくれる人がいて嬉しいよ。ありがとう」
馨先輩は立ち止まってからそう言って、にこっと笑った。
いつもの爽やかな笑顔ではなく、さっきのような悲しげな気持ちもあるように見えたが、どこか胸の中に溜まっていたものを放出できたような、すっきりとした表情をしていた。
家まであと十メートルぐらいの距離にきたところで、家で飼っている黒猫のキキが、「にゃあ」と鳴いて草むらからのそのそと出てきた。キキはいつも私の帰りをこの辺りで待っていてくれるのだ。まぁ、ほんの少しでも雨の降った日は、ここではなく家の玄関で待っているのだが。
私の足元に来たところでお座りをしたので、私もしゃがんで頭を撫でてあげた。キキは気持ち良さそうに目を閉じてごろごろと喉を鳴らした。
「かわいいね。この子は河井さんの家で飼っているの?」
「そうなんです。キキって名前で、いつも学校から帰ってくると、こうやって迎えにきてくれるんです」
いい子だね、と言いながら馨先輩は笑顔でキキに視線を送った後、私の家を見た。
「あそこが河井さんの家?」
「はい、そうです。だからもうこの辺で大丈夫ですよ。忙しいのにこんなとこまで来てくださって、ありがとうございました!」
私は立ち上がって深く頭を下げた。キキが馨先輩の足元へ歩いていって、先輩の足に体を擦り付けていた。
「こちらこそ。何度も言うようだけど、本当に話を聞いてくれてありがとう」
「でも……聞いただけで、私、何も手助け出来なかったです……」
「ううん、話を聞いてくれただけでも充分だったよ。過去の話だし。僕はただ――誰かに聞いて欲しかっただけなんだ……」
馨先輩は足元にいるキキを見ながら言った。
「今度帰るときはもっと明るくて楽しい話をしよう! 僕は月曜日でよければ一緒に帰れるからさ!」
「ほんとですか!?」
「うん! 僕でよければまた同じ時間に裏門前で待ってるから!」
「はい、分かりました!」
私は自分で言うのもなんだが、すごくいい笑顔をしていたと思う。嬉しすぎて、嫌なことまで全部忘れてしまいそうだった。
二年に上がってから今まであった出来事を思い出していた、その時――。
空白の頭の中に、始業式の日、音楽室で見た人形のような女生徒が突然浮かんだ。
一番思い出したくないものを思い出してしまった……。
「どうしたの?」と馨先輩が心配そうに尋ねてきた。私の顔から急に笑顔が消えたから不審に思ったのだろう。
馨先輩なら彼女のことについて何か知っているかもしれない。始業式の日――時間は違ったが、馨先輩も音楽室の中にいたのだ。
「先輩、あの……、始業式の日のことなんですが、音楽室に誰かいましたか? 女子で、髪がすごく長くて……よくは見なかったんですけど、お人形さんみたいな顔をしていました」
馨先輩は口元に手を当て、考えているようにしていたがすぐに手を戻して、
「うーん……ちょっとわからないなぁ。ごめんね」
やっぱり馨先輩も見ていないというわけだ。
あれは――なんだったんだろう。私のただの錯覚か幻覚だろうか。いや、私は今まで一度も幻覚というものを見た事がないのだ。いやいや、最初の一回が、あの時あの瞬間だったのかもしれない。いやいやいや、あれがもし幻覚だったとしたら、あまりにもリアルすぎる。顔は人形の様でも、ちゃんと人の姿をしていた。
生きていたんだ。そして私に向かって微笑んだのだ。
――ありがとう。みーちゃん。
記憶のどこかから、幼い女の子の声が聞こえた。
この声は――。何故今このときに――?
「大丈夫です! じゃあ先輩、また来週に!」
私は自分の思考を自分の発言によって停止させようとした結果、テレビ番組の司会者みたいなセリフを言ってしまった。
馨先輩は気にせず「さよなら!」と手を振りながら、真っ暗な風景の中に走っていった。
あまりにも幸せ過ぎて、夢なんじゃないかと思ってしまうような帰り道だった。
馨先輩の姿が見えなくなった後、私はキキを抱いて家の中へと入っていった。帰ってきた私の表情が溢れんばかりの万遍の笑みを浮かべていたので、母が「何かいいことあったの?」と聞いてきた。
「なんでもな〜い」