先輩
――馨先輩が私のことを下の名前で、さらに優しくて綺麗と言ってくれた……?
美紀さん――。
優しくて綺麗――。
またも馨先輩の声が頭の中で延々と響く。本来は姉のことに関して馨先輩は言っていたのだが、あたかも自分のことのように私の脳内では変換されていた。
「そ、そそそそ、そんなことないですよ! 私なんか全然! それよりも、馨先輩はお兄さんとかいないんですか!? きっと、先輩のお兄さんとかお父さんは、先輩に似てすっごくかっこいいんだろうなぁ〜」
照れ隠しにべらべらと口走ってしまったが、それでも自分の口から馨先輩のことをかっこいいと言えたからよかった。
しかし。
「……僕には、家族がいないんだ」
私は触れてはいけないことを、馨先輩に聞いてしまったのだ。もっと考えて発言するべきだと思ったが、それは言った後だから思えるわけで、今の私の精神状態ではとてもそんなことを冷静に考えられる状況ではなかった。
「ご、ごめんなさい! その、気にしないでください……」
とりあえず、謝るしかなかった。誤ることしか出来なかった。
しかし顔を上げてこちらを向いた馨先輩は、普段とそこまで変わらない真剣な表情をしたままだった。
「いや――、いいんだ。むしろ、その事について話を聞いて欲しいんだけれど……いいかな?」
「わ、私でよければ……」
馨先輩にひどいことを言ってしまったのは本当に申し訳ないと思うが、馨先輩という人物を知る良いきっかけになったようだ。
決して、明るい話ではない、胸が苦しくなるような話だろう事は覚悟していたけれど。
「ありがとう。……まず、僕は産まれてから一度も、父には会ったことがないんだ」
「それって……人工授精とかで産まれた、ってことですか?」
「ん〜、そういうわけではないんだけどね」
先輩は眼鏡を少し持ち上げて位置を正した。
「僕の両親は結婚をしていなかったんだ。それもそのはず、父は僕が産まれる前に、既に他の女性と結婚をしていて、僕を産んだ母は元々……水商売をしていたんだ。それで父は奥さんに黙ってそういう店に行き、母と知り合った……」
なんだか大人な話だ。聞いていて話の内容は分かるが、想像が出来ない。たとえ出来たとしても、馨先輩が隣にいる今この時に、そんな破廉恥な事を考えてはいけない。
「出遭った当初はそのお店でしか付き合いはなかったらしいんだけれど、二人の関係は次第に親密になっていき、親交を深めていったそんなある日、相手の女性――僕の母は妊娠してしまった」
妊娠という言葉は、現在の私には縁遠い言葉だった。ドラマで中学生が妊娠してしまった、という話は見たことがあるが、中学生という年齢はまだ成長しきっていないと思う。大人とはとても呼べない。大人にいち早くなりたいと願う、子供でしかないのだ。そんな年齢で妊娠や出産などという単語を聞いても、現実味がなかった。
「それでも父は僕の母に好意を抱いていたのか、おろさせないでちゃんと産ませたんだ。そして無事産まれたのが――、僕なんだ」
馨先輩の出生の秘密。そんなことを私なんかが聞いてしまうなんて――。私はさっきの発言について、ひどく反省した。
「しかし、ちょうど僕が生まれた頃に、彼の奥さんも子供を出産したらしい。その結果、赤ちゃんが二人――彼の子供が別々な場所で同時期に産まれてしまった。だから、父も育児をしたりお金を渡したりで、奥さんと相手の女性との間を行ったり来たりを忙しなくすることになってしまった。その様子をさすがに不審に思った奥さんは、ついに父が別な女性と関係を結んでいることを知ってしまった」
こんな例えをしてはとても失礼だと思うが、なんだか昼ドラのような展開だ。
帰り道は、いつの間にかもう半分を過ぎていた。もうすぐで、馨先輩とお別れしなければならない……。
「その後どうなったかというと――、奥さんは離婚を申告し、産まれた子とは別に元々子供がいたらしく、その子だけを引き取り、生まれた赤ん坊は父に渡して瞬く間に家を出て行ってしまったんだ。残された僕はというと、男手ひとつで子供二人は育てられないという理由で、僕を産んだ女性のもとへと引き取られた」
つまり、結婚をしていた奥さんが、元々いた子、馨先輩のお兄さんかお姉さんにあたる子を引き取り、馨先輩のお父さんが奥さんの産んだ第二子を引き取り、馨先輩のお母さんはそのまま自分の産んだ子を自分で引き取ったという事になる。
しかし、自分で産んだ赤ん坊を引き取らないで、父に引き取らせるという奥さんの心境はどういうものなのか。大人の事情は私には分からなかった。
「それでも父は、その奥さんが産んだ子を相当大事に育てたらしいんだ。さすがに責任を感じたんだろうね。それに対して――僕を産んだ女性は、お世辞にもちゃんと育児をしてはいなかったそうだ。幼児期のことだからもちろん僕は覚えていないが、一緒に暮らしていたその女性のお母さん――、つまり僕の祖母に聞いた話によると、僕のことはほとんどほったらかしで、毎晩のように夜遊びばかりをして、家に帰ってくるとひたすら寝ているだけだったそうだ。
そんな母さんだったから、僕はそれまでずっとおばあちゃんが本当の母だと思っていたんだよ。本当の母は自分の姉なんじゃないか――とか思ってたりね。勘違いしていたというよりは、そうであってほしいと願っていたのかもしれないけれど……」
馨先輩は自分のつらい過去の話をしているのに、口元は笑っていた。笑っていたが――、心から笑っていないのが、その言動から伺えた。
私は――馨先輩がかわいそうで仕方なかった。
そんな育児放棄同然の母に育てられたというのに、よくひねくれないでこんなに真面目に成長できたと思う。おばあちゃんのおかげもあるんだろう。もしおばあちゃんがいなかったら、馨先輩は今のようになっていなかったかもしれない。それどころか命の危険もあったはずだ。
馨先輩は音をたてずに前へ進みながら、話を続けた。
おばあちゃんがいてくれたおかげで、僕は無事ここまで成長していったんだけれど、僕が中学校に入学する頃――今から二年前に、おばあちゃんは亡くなってしまった。でも無理もなかったんだ。僕が小学校に上がる頃には、既にお祖母ちゃんは八十歳を過ぎていたらしいし、重い病にも掛かっていたそうなんだ。僕は悲しい気持ちもあったけど、それよりも僕からは何も御礼と呼べることが出来なかった申し訳ない気持ちでいっぱいだった」
馨先輩は少し立ち止まって俯いたが、すぐにまた歩き出した。
「そして僕を育ててくれる人は、母一人だけになった。それなのに――母は生活を変えようとはせず、今まで通り毎日夜の街を歩き回っていた」
普通、不良になるのはちょうど思春期のそのぐらいの時期だろう。それでも馨先輩は見た目通り相当真面目な人だ。馨先輩は、下手な大人よりもすごい精神力を持っている。
もうすぐ私の家が見える、草木に囲まれた暗い夜道を馨先輩と並んで歩く。道の横には田んぼが広がっていて、その所為で道の一部分が急な傾斜になっているため、慣れていないと足を滑らせたりして危ないので私が田んぼ側を歩くことにした。