先輩
2
四月十六日。見事にKLDを脱退した私は、これで何かと悩む事もなく、ただ馨先輩のことだけを頭の中に埋め尽くせるようになった。
ともちゃんは、裏切り者の私が許せないのか、終始一度も私に話しかけてこなかった。
部活が終わり、ついに、ついに――。
遂に、馨先輩と一緒に帰れる時が来た!
今日ほど部活を長く感じた経験はない。パート練習もほとんど自主練だったので、さらに長いように感じた。まだ終わらないのか、早く終わってくれないかと、時計を頻りに気にしていた。
練習中にリンが話しかけてきたりしたが、私は帰りに馨先輩と何を話すかで頭がいっぱいで、どういう会話をしたのか全く覚えていない。ただ、KLDの件は特に聞かれていなかったことは定かだ。
部活終了のチャイムが鳴った途端、私の心臓は暴走したかのように急激に速く動き出した。本当に飛び出てしまうんじゃないかと思った。
楽器を仕舞い終わったところで、鼓動はピークに達した。胸が痛くなるほどズキンズキンと活発に動き、呼吸が荒くなり、暑くもなく寧ろ寒いぐらいの気温なのに、私は汗を掻いていた。
この調子では、馨先輩と帰っている間はどうなってしまうのだろう。心臓発作で倒れてしまうんじゃないかと不安になった。心臓に持病は何も持っていないからその心配はなかったけれど。
全員が楽器を仕舞い終わって、間もなく今日の部活の時間は終了した。音楽室を出る前に、休日に遊ぶ約束を今のうちにしておこうと思い、リンに話しかけた。この時のリンとの会話はちゃんと覚えている。
「リン、今週の土曜日さ、リンの家に遊びに行ってもいい?」
「うにゃ? いいよ。うちに来るの久々だねぇ。あ、そうだ!」
リンはその場で少し跳ねた。いきなり大声を出すので、後ろに立っていた先輩がびっくりしてこちらを少し睨んだ。
「リン専用のお部屋がついに出来たんだよ! リンだけの、リン専用のベッドがあるお部屋! 是非とも見にきてくれたまえ!」
そう言ってリンは胸を張った。身長に反して大きな胸が、さらに大きく見える。
「うん、分かった! さっきともちゃんに言ってたことも、そのとき詳しく話すから!」
「ん? さっき言ってたことって……なんだっけ?」
リンは首を傾げて何度か瞬きをした。
この調子なら、リンは今までの事も確実に許してくれるだろう。私はほっと安心した。
そのまま下駄箱を出たところで私とリンは別れた。ともちゃんとちーちゃんは部活が終わった途端に、消えるように帰って行ったようだった。
リンと話していたから、六時を少し過ぎてしまった。
馨先輩はもう待ってくれているかもしれない。本来待つべき立場は、後輩である私なのに。
心臓の脈を打つ速さより少し遅いスピードで歩き出した。脈を打つ音が頭にまで響き、少し眩暈がしてきた。
――緊張する。
目先に見える門の前には、馨先輩が立っているのだろうか。
……いや、馨先輩一人だけでいる可能性は低いのだが。
手には汗が染み、血が止まったかのように冷え、指先が少し震えている。膝もがくがくと震えていて、小石につまずいたら、バランスを崩して思い切り転んでしまいそうだ。
あと五歩で学校を出る。校門の、外から見て入口側が視界に入る。
期待したって、先輩一人ではないのに――。
他の女子も一緒に帰るのかもしれないのに――。
そして、私の足は五歩目に達した。校舎からはだいぶ離れ、校内で部活が終わった生徒の騒ぐ声は聞こえなくなっていた。空はもう暗い。雲がいつもより多い気がした。月は曇で覆われていて、ぼんやりと半月を現している。
左に視線を向けると――、
並んで建てられた住宅が見える。その道に並木が均等に並んで生えている。
視線の先には、夜空と並ぶように突き出たヤクザのビルが暗闇に包まれているかのように、遠くの方に建っている。
視線を手前に戻す。
耳を澄ましても、話し声は何も聞こえない。
そのまま今度は反対側に目をやると――。
暗闇に同化しているかのように真っ黒な学ランを着て、
「やぁ、河井さん」と、銀髪の生徒がこちらを向いて挨拶をした。
周辺をきょろきょろと見回すが、馨先輩以外に生徒は誰もいなかった。
裏門前にいるのは、私と馨先輩の二人だけだ。
馨先輩と会う前より明らかに緊張しているはずなのに、私の鼓動は徐々にゆっくりになっていき、何故だか気持ちも落ち着いてきた。
「あの……他に一緒に帰る子はいないんですか?」
普段通りとまでは言えないが、初対面の時よりもしっかりと話せるようになっていた。
「河井さん以外の生徒は誰も誘ってないよ。友達も一緒の方がよかったかな……?」
「あ! いえ、そんな事ないです!」
聞き方が悪かった。今の聞き方ではまるで馨先輩と二人だけで帰るのが嫌なように聞こえるじゃないか。落ち着きを取り戻してきていたのに、また昼休みに図書館で馨先輩と会ったときのように焦ってしまった。
馨先輩は、私の思いが伝わったのか、それとも単に私の焦った表情を見て納得したのか、にこっと笑って、
「そっか。じゃあ、帰ろうか」
と言って、そのまま手にぶら下げていた重そうな鞄をひょいと持ち上げ、持ち手の部分を肩に引っ掛けた。始業式のあの時、あんな巨体を軽く投げ飛ばしたのだから腕の筋肉は相当あるのだろう。鞄に厚みがあって見るからに重そうだ。
「河井さんの家に帰るには、どっちに歩いていけばいいのかな?」
そうだった。馨先輩は私の家の位置など、知っているはずがないのだ。だから私が動かないことには、馨先輩も動けないのだった。
「あ、ごめんなさい! えっと……こっちです」
私は馨先輩が立っていた校門とは逆の方へ、モーターで動いているロボットの様にカクカクと歩き出した。緊張して膝がうまく曲がらない。目も顔も体も真っ直ぐ前に向けていると、馨先輩が軽く走って私の横に並んだ。
「緊張しなくていいよ。 もっと気楽に、肩の力を抜いて!」
馨先輩は私の顔を覗き込むようにして言うと、またにこっと歯を見せて笑った。暗いからはっきりとは見えなかったが、すごく歯並びが良かった。
恐らく、私は馨先輩の笑顔を見る度に固まって赤面になっていたに違いない。これでは「馨先輩の事が好きです!」と告白しているのも同然である。それがはたして私にとって嬉しいことなのか、恥ずかしいことなのか分からなくなってきて、あんなに部活の最中に考えていた馨先輩と話そうとしていた内容を、全く思い出せなくなってしまった。
校門を出てから何分か経ち、私が話を切り出さない――というか切り出せない――から、馨先輩から話題を振ってきてくれた。
「河井さんは、姉妹はいるの?」
「はい。 年の離れた姉が一人……今は実家を離れて一人暮らししてますが」
私と七つ年が離れた姉――河井 桜は、私の大好きな人であり、憧れの存在だ。
短大を卒業し、今はモデルの仕事をしている。凡人顔で日本人体系な私に反して、姉さんは清楚な顔に、足が骨と皮しかないぐらいに細く、さらに外人のように長いという、モデルになるために生まれてきたような人なのだ。
「そっか。美紀さんに似て、きっと優しくて綺麗な人なんだね」