先輩
そんなときに、一緒に帰ってくれようとしている頼もしい男性がいる、さらに、その人は大好きな馨先輩なのだ。
こんな偶然――奇跡があるのだろうか。
被害にあっていないからこんなことが言えるが――ストーカーに感謝すべきである。
もちろん私の答えは決まっていた。
「じゃあ、よ、よろしくお願いします……!」
私はまた深々と頭を下げた。
「ありがとう。河井さんは、吹奏楽部に入っているよね? それじゃあ六時に正門前でいいかな?」
「正門?」
始業式の日に学校の外で先輩に会った日は、裏門から帰れなかったから、正門から帰ったのだ。だから馨先輩は私の家は正門方面だと思っているようだ。別に正門から出ても距離はそこまで大幅に変わらないし、馨先輩と帰れるのならそれぐらい全く気にならない。……と思ったのだが、もしKLDの誰か一人にでも馨先輩と帰っている姿を見られたら、私は裏切り者になってしまう。
そうなってしまうと面倒なことになるし、もし馨先輩とこの先進展するようなことがあった時に、邪魔をされたり陰口を言われたりと、悪いこと尽くしになってしまう。KLDの内、私以外のメンバーは全員正門組だったから、ここはいくら馨先輩でも、いや相手が馨先輩だからこそ言うしかなかった。
「あの、裏門でもいいですか…?」
「あぁ、じゃあ裏門にしよう。オッケー。じゃあそういうわけで、また帰りに!」
そのまま馨先輩は二階へ行かず、早歩きをしながら図書館の外へと消えていった。
またもやあの時のように、私は頭の中が空っぽになって、その場に立ち止まっていた。
馨先輩をまた正面から見ることが出来た。馨先輩とまた話すことが出来た。馨先輩の笑顔、さらに声を出して笑っている姿も見ることが出来た。馨先輩が私の肩に手を置きながら……、
馨先輩が、私の肩に手を置いていた?
そう思った途端、図書館に漂っている熱を全部吸収してしまったかのように私の身体は猛烈に熱くなり、心臓が悲鳴を上げているようにドクドクと鳴り響いた。あまりの急激な変化についていけず、思わず両手で自分を抱くようにしながらしゃがみ込んでしまった。受付の女子生徒が駆け寄ってきて、
「だ、大丈夫ですか? 保健室に連れて行きましょうか?」
と声を掛けてきた。さっきのムッとしていたときと、全然態度が違う。
別に具合が悪いのではない。信じられない展開、私にとっては奇跡の出来事が突然にいくつも同時に起こり、そんな状況についていけなかっただけだ。
大丈夫です、と答えてすぐに立ち上がり、とりあえず図書館から出ることにした。
扉を閉めた時に中を見ると、受付の生徒が心配そうに私のことをじっと見守っていた。
「あれ? みーちゃん、今日はいつもより戻ってくるの早いじゃないデスか」
教室に戻ると、リンが七月のコンクールの課題曲の楽譜に鉛筆で何かを書いていた。
「うん、ちょっと今日は集中できなくて……。はい、カード返すね。リンはずっと教室にいたの?」
「ありがと。ソウだよ」
リンはカードを受け取り、胸ポケットに入っていた生徒手帳に仕舞いながら答えた。
「そうなんだ。というか楽譜みてたんだ……偉いね」
「ううん、ボーイング写してただけだよん」
「そっか。ところで話は変わるんだけどさ……、私って――おもしろいかなぁ?」
さきほど馨先輩に笑いながら言われたことを、長年の付き合いのリンに聞いてみた。
「ん? ん〜……まぁ、少なくともリンゴよりはおもしろい人かもねー。リンゴは常に真面目ちゃんだから〜。ウケとか狙ってられないのよ〜」
いくら相手が出会って八年目の付き合いとなる親友でも、聞く相手を間違えたようだ。
「でもなんでまた突然? 図書館で誰かに言われたの?」
ここで馨先輩の名前を出すのはまずいと思った。別にリンには知られてもいいし、むしろ極力隠し事はしたくない。だけどリンの場合、うっかり他のメンバーにしゃべってしまう危険性がある。部活ではいつも馨先輩の話題が持ち上がるのだ。事前に「ないしょにしといてね」と言っても、確実に口から漏れてしまうだろう。そうなってしまっては相当まずい。図書館のメンバーはもちろん、あけみにまで知られてしまうことになる。
「そ、そうじゃなくて、昨日テレビ見てるとき、お父さんに言われたのよ」
あぁ――。またもや私はリンに嘘をついてしまう。
「ふーん。そうなのかぁ」
リンはどうでもよさそうにそう答えると、また楽譜に視線を戻した。
その後の五時間目の授業と六時間目の授業は、全く集中できなかった。午後の満腹後の授業が国語と英語だからという理由もあるが、一番の理由はもちろん先ほど起こった馨先輩の事だ。
つい二、三日前までは遠くから後姿を眺めていただけなのに、今日は顔を合わせて話しただけでなく、馨先輩が私の肩に手を置きながら話してくれていた。もしこれが中年の男ならセクハラだと思うが、馨先輩にはそんな下心があるとはとても思えない。馨先輩はそんな男ではない。
それにしても――未だに信じられない。馨先輩が私を見て笑ってくれたなんて。……いや私が単におかしな行動を取っていたからなのだろうが。
そして何より信じられないのが、今日、私は馨先輩と一緒に帰る約束をしたのだ。
ほとんど話したことがない、出遭って一週間しか経っていないのに、二人で一緒に帰る約束をしてしまったのだ。
――いや待て、落ち着いて考えよう。
二人で、とは一言も言っていなかった。一緒に帰る理由は、最近ストーカーが徘徊しているという噂があって、女子である私が一人で帰るのは危険だから、だ。もちろん学校にいる女性は私だけではないから、私以外の女生徒も一緒に帰る可能性があるのだ。むしろそっちの可能性の方が高い。
理想としては私と馨先輩の二人だけが一番だが、それはそれで緊張してちゃんとした会話が出来ないまま家に帰ってしまいそうな気もする。それでは馨先輩と一緒に帰る意味がない。いや、ストーカーから守ってもらうことが本来の一緒に帰る理由なんだから、話せなくても意味はあるのだが……。
――考えてもしかたない。結局は一緒に帰ってみないことにはどうなるのか分からないのだ。
その結論に達する頃には、六時間目も残り五分となっていた。
二年生に上がる今まで、授業は一応真面目に受けていたつもりだったが、こんなにも他のことばかり気になって集中出来ないのは初めてだった。もしこの状態がずっと続いたら、中間試験は相当悪い結果になるだろう。
これからは毎日家でも勉強するようにしよう――と、心に決めた。
授業が終わり、私はリンと二人でいつも通り音楽室へ向かった。
しかし、中に入るといつものKLDメンバーが座っている席に、あけみだけが来ていなかった。
入った途端、昼休み来なかった理由をともちゃんに問い詰められるのかと思っていたが、その話題には触れられず、ともちゃんは普通にちーちゃんと二人でおしゃべりしていた。