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先輩

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   2

 四月八日――。その日、彼女は何度も泣いた。
 理由は様々だ。悲しくて泣いたし、感動して泣いたし、同情しても泣いた。いくらよく泣く彼女でも、今日ほど泣いた日はあまりないだろう。その所為で体中の水分が減り、喉がカラカラになってしまったほどだ。
 彼女――桃瀬林檎には、気になることがひとつあった。
 吹奏楽部の部長の正体である。
 美紀に聞いてもみたが、彼女は「親馬鹿ヤンキー中学生説」を説いて、自分で納得してしまった。確かにそれなら理に適っているが、林檎にとってはなんだかしっくりこなかったし、おもしろくなかったのだ。
 彼女が気になる理由――。それは、そんな謎の存在の部長が、かっこいいと思ったから、ただそれだけだった。
 名前も分からない、誰も姿を見たことがない、一度も部活に出席したことがない、それなのに一年の入部当初から部長の席に座っている。そういうむちゃくちゃ具合が、林檎にとってはかっこいい存在なのである。憧れとも言えるだろう。アニメにも仮面つけた敵や、マスクを被った教祖等、正体が分からない存在はかならず高い位にいる。部長もきっとそんな存在なんだ、と林檎は確信していた。
 そして、その正体を暴くのは自分の役目だ――と思った。
 さっそく、林檎は学級活動が終わってすぐに音楽室へ行った。自主練をしたいという気持ちもあったが、それよりも、部長について何か手がかりがないか調べたかったからだ。
 自主練をする時に、面倒だった音楽準備室の鍵を借りに行くという動作が、さっきの二人組によって省かれたので、二人組には少し感謝した。……が、肝心の音楽室の鍵は閉まっていたので、結局鍵を取りに行く羽目になってしまった。
 職員室へ鍵を借りに行くついでに、顧問の加藤先生に部長の件について聞こうとしたが、あいにく先生はまだ帰ってきてなかった。というより、職員室は教師がほとんどいなくてガラガラだった。
 やはり、さっきのDクラスの件で大騒ぎしているのだろうか。とりあえず唯一そこにいた事務の先生に声を掛けて、音楽室の鍵を借りていった。
 鍵が閉まっているということは、まだ誰も来ていないのだろう。林檎はちょっと寂しかったが、これはこれで練習に集中出来るからいいか、と思った。
 楽器をケースから出して抱えながら鍵を開けるのは大変なので、先に音楽室へ向かった。
 引き戸の扉に鍵を差し込んで、鍵を回すとガチャリと音を立てた。そのまま左に扉を動かそうとしたが、扉はすぐに止まってしまった。
 おかしいと思い、もう一度鍵を差し込んで逆に回すと、今度はちゃんと開いた。どうやら元々開いていたらしく、最初に鳴った音は鍵を閉めた音だったらしい。
 林檎の勘違いだったのだろうか。そういえば、あの銀色の髪の先輩も音楽室から出てきていた。それに美紀も、中に何かがいたとか騒いでいた。
 林檎は少し怖くなった。誰も来ていないのだし、やっぱり帰ろうかとも思った。でも、このまま帰ってしまっては、それはそれで気になってしょうがなくなるかもしれない。特に今日は色々起きたのだ。何か面白い事が起こるはずだ。
 林檎はホラー映画は嫌いだが、お化け屋敷は好きなのである。どちらも怖い思いをするは一緒だが、おばけ屋敷は人に作られた空間に、人の作ったお化けが配置されているだけで、本物のお化けがそこにいるわけではないため、平気だ。一方、ホラー映画は、その世界の中では全部本当のことであり、登場人物が恐怖を感じているのも、その世界の上では本当に恐怖を感じているのだ。不気味な幽霊が出たのなら、その幽霊もその世界では存在し、そこで実際に起こっている現象なのである。
 つまり――今日起きたことも、この学校も、林檎にとってはお化け屋敷のようなものなのだ。怖いものなんてない。幽霊なんていない。謎と一括りにしてしまうから怖くなってしまう。全ては偶然によって形成されているだけなのだ。
 そしてその屋敷の親玉的な役が、正体の分からない部長、というわけだ。
 とりあえず音楽室に入るだけ入ってみた。別に何の変哲もない防音の教室である。天井が少し高くて、黒板の方へと進むにつれて、ちょっとずつ段になって床が高くなっている。
 ピアノはヤマハ製のグランドピアノで、サイズも大きい。林檎は昼休み等、あまり部員が練習しに来ない時に弾いたりする。
 ふと壁の方から視線を感じたので、ゴムではじいたように勢いよく振り替えった。しかしそこにいたのは、ベートーヴェンやバッハの肖像画だった。
 安心した反面、ちょっと残念でもあった。時々、今の時と同じように肖像画を見て驚くことはあるが、今日はなんだか妙に違和感があった。それが何かは分からなかったが。
 結局一通り室内を観察してみたが、不思議な点は何もなかった。
 何を期待しているのだろう。お化けや幽霊が出てきて欲しいのか。それはない。さっきも言った通り、お化けや幽霊は作りものならおもしろいが、現実で遭遇したら失神してしまうだろう。
 部長が出てきて欲しいのか。そもそも部長がどんな人なのかも分からないのだから、出てきたところで部長本人かどうかはわからないのに。
 なんとなく練習する気が失せてしまったので――というより元々練習する気なんてなかったのかもしれないが――気晴らしにピアノを弾くことにした。
 すべりが悪くてちょっと重い鍵盤のふたを開けて、ドの音が鳴る鍵盤を、出っ張ったものを潰すように押した。押した鍵盤が、中のハンマーを強く叩きすぎて汚く鳴り、倍音がピアノの中でじわじわと響いていった。終業式前はめちゃくちゃだった調律が直っている。
 林檎は笑顔になって椅子にぴょこんと跳ねて座った。椅子は堅い素材のため、座った瞬間おしりの骨に痛みが走った。
 痛みはすぐに落ち着いたので、姿勢を正してふぅ、と一息つき、そっと鍵盤の上に手を乗せた。鍵盤の表面が金属のように冷たかった。
 息を吸い、彼女はベートーヴェンのピアノソナタ第八番「悲愴」の第一楽章を弾き始めた。
 第一楽章 ハ短調――Grave: allegro di molto e con brio――。
 ピアノは静かに歌い始めた。序奏は落ち込んでいるようでいて時々笑顔を見せる。そしてテンポが上がった途端に表情を怒りに変えて、胸に溜まっていた愚痴を、言いたい放題言うように激しくなる――。
 林檎はそのように頭の中で思い描きながら、自分の音色に喜んだ。演奏をしながら目を瞑り、斜め上の宙に顔を向けてうっとりと聴き入っていた。
 自分の演奏がすごいというよりは、ピアノという楽器と、この曲を作ったベートーヴェンに感動し、身を委ねてしまうのだ。そんな曲を弾ける自分自身にも、正直に言うと酔っているのだが。
 曲が再現部に入ったあたりで、彼女は完全に自分の世界へとのめり込んでいた。目を開けたときには、既に曲が終わっていた。それくらい彼女は自分の演奏に集中していたのだ。
 ピアノの蓋の上には、細かいほこりが都会の雪のようにつもっていた。彼女はおもしろいと思い、椅子から立ち上がって指でそのほこりをなぞり、「りんご」と書いた。指を見ると灰色の埃の塊がついてしまったので、スカートになすって落とした。
「さすが桃瀬さん!」
作品名:先輩 作家名:みこと