慟哭の箱 10
冷たい大理石の感触。外が白んでくるのを、旭は静かに眺めている。須賀家、玄関ホール。
今は誰もしないこの家に、旭は一人佇んでいる。
(…この家に、いい思い出は一つもないなあ)
この家はいつでも寒かった。春も夏もなかった。毎日が灰色だった。
食事を抜かれて放り出された玄関ホール。
泣くと父の書斎に呼ばれて怒鳴られた。叩かれた。
母と囲む無言の食卓。どんなごちそうも、煩わしそうな母の視線で味がしなかったっけ。
鍵のついた二階の自室には、入れそうにない。武長の声が、耳の奥に蘇ってきそうで。あの部屋で繰り返し行われたことは、今ではもう鮮明に思い出せる。
怖くて、痛くて、つらかった。
誰か、といつも誰かが助けに来てくれるのを待った。
だけど扉があくことはなかった。
(俺は旭だ。でも、一弥でもある…)
旭は自分の手のひらを見つめた。
あれほど得体が知れず、未知の人格だったはずの一弥を、いま、ほかのどの人格よりも理解できる。あれは旭だ。旭自身の心なのだと、今更ながら実感できる。俺は旭であり、一弥だ。
だからこそ、今度は逃げるわけにはいかなかった。
ごん、と音をたてて、大きな玄関の扉が開いた。過去がやってきたのだ。
「おはよう、武長のおじさん。通夜ぶりだね」
立ち上がって対峙する。旭の中で、涼太が悲鳴を上げているのが聞こえる。大丈夫、と言い聞かせる。もう俺たちは、無力な子どもじゃない。
旭は…一弥は、怒りを収めた冷静な瞳でその男を見つめた。
覚えている。あの頃より年を取ったが、人の良さそうな清潔感のある雰囲気は変わっていない。紳士なのだ。
「こんなところに呼び出して…何だい?助けてほしいことがあるって」
「そうなんだ。両親が死んで困ってる。また助けてほしいんだ」